愛の知恵袋 134
アフガンの光─中村 哲(上)

(APTF『真の家庭』255号[2020年1月]より)

松本 雄司(家庭問題トータルカウンセラー)

内戦と干ばつの辺境に挑んだ男

 2019124日、衝撃のニュースが飛び込んできた。

 「アフガニスタンで活動中の中村哲医師が、武装勢力の銃撃を受けて死亡……」

 この一報は彼の活動を知っていた世界中の人々にとって、驚きと悲しみの知らせであった。同氏は35年間にわたるパキスタンとアフガニスタンでの医療活動と農業再建活動の功績により、2003年に「アジアのノーベル賞」と呼ばれる「マグサイサイ賞」を受賞。昨年10月にはアフガニスタン政府から外国人で初めての名誉市民権を授与されたばかりだった。

 中村哲氏は1946年福岡市の生まれ。小学生の時から昆虫観察が大好きで山々を歩いた。西南学院中学部に通うときに内村鑑三の著書に接し、「自分の将来は日本のために捧げたい」という使命感を抱いたという。73年九州大学医学部を卒業後、佐賀県の国立肥前療養所の精神神経科に勤務。そのあと大牟田市の労災病院に4年間勤務。この時、福岡登高会の遠征隊に医師として同行し、ヒンドゥークシュ山脈の最高峰ティリチミール(7708m)登山に挑んだが、そこで山岳地帯の自然と人々の暮らしに触れ、これがのちに現地赴任への縁になったという。

 78年から八女郡の脳神経外科病院に勤務。この時、JOCS(日本キリスト教海外医療協力会)から声がかかり、福岡徳洲会病院で一般内科・外科の研修を受けたうえで、84年にパキスタン北西部の州都ペシャワールにある「ペシャワール・ミッション病院」に赴任。90年までの7年間同病院で医療活動に専心し、その後はアフガニスタンを中心に救援活動を続けた。

山岳辺境地域での診療とハンセン病との闘い

 現地病院ではハンセン病棟の責任者になった。病棟は想像を絶する環境で、医療器具はほとんどなく、ベッド数もわずか、治療室は狭い部屋しかなかった。当時、パキスタン全土でハンセン病患者は登録者だけで2万人(実数はその5倍)。それに対してハンセン病専門医はわずか3人。

 中村の病棟でも多い日は70名を超える患者が来る。中村と二人の看護師では対応は不可能だったので、症状の軽い患者を教育して助け手としたが、彼らは進んでそれを引き受けてくれた。患者はパキスタンとアフガニスタンにまたがる山岳辺境地域に多く、極貧と不衛生のうえ医師不在のため、あらゆる感染症の温床になっていた。中村はハンセン病根絶のため辺境地域の村落を調査し、無医地区の診療活動にも力を注いだ。

 また、患者の履物はボロボロで、足底潰瘍になり、皮膚がんや骨髄炎を起こして切断手術をする者が後を絶たなかった。そこで、中村は病棟にサンダル工房を設け、現地風のサンダルを製作しては配布した。それが普及することで足切断手術をする者は目に見えて減っていった。

 国境を隔てたアフガニスタンでは、78年共産政権が誕生し、翌年にはソ連軍が侵攻していた。共産政権は農村を封建制の温床とみて、これを壊滅させ都市に移住させて管理しようとした。農民の多くは村を捨て国境を越えて避難。85年までに270万人がパキスタンへ、150万人がイランへの難民となり、アフガニスタン農村の半数、5000の村落が荒廃してしまった。

 中村の病院の患者も半数以上がアフガニスタンからの難民であった。中村は彼らのために救急医療センターを設置し、更に国境を越えて、アフガニスタン国内の戦闘地域でも移動診療所を開いた。そして、苦心の末、923月にジャララバードの北部、ダラエヌール渓谷のカライシャヒ村に診療所第1号を開設し、アフガニスタンの山岳辺境地域の医療活動を本格始動させた。同年12月にはダラエビーチに、95年にはワマにも診療所を開設した。武装勢力の対立と内戦で多くの外国人が襲撃されて命を落とす情勢の中で、常に危険と隣り合わせの活動であった。

現地人と共に泣き、共に生きる

 中村医師はいつも現地人職員と寝食を共にし、現地語を覚え、彼らの苦難の理解者となった。ソ連軍と戦うムジャヒディン(イスラム聖戦士)達とも行動を共にし、彼らの信望を得ていった。

 89年にはソ連軍が撤退したが、この10年で200万人が死亡した。92年には首都カブールの共産政権が崩壊。その後は再び内戦が続いたが、96年にイスラム原理主義者のタリバン政権が誕生した。だが、中村は彼らからも信頼を得て、その支配地域で診療活動を続けたのである。

 このような活動を支えたのは日本の支援団体「ペシャワール会」であった。中村は現地住民の実情と自らの体験を日本の新聞社に送り、帰国時には著書を出版し、講演活動もした。それによって支援の輪が広がって資金が集まるようになり、活動は徐々に拡大していった。

 98年、遂に、救援活動の拠点病院としてペシャワールに70床のPMS(ペシャワール会医療サービス)病院を建設することができた。この基地病院と4か所の診療所で、中村をはじめとする日本人と現地の職員が、総合医療を低料金で提供してきたが、その年間診療数は15万人を超えていた。この数字だけでも、現地の惨状と職員たちの苦労がしのばれる。(続く)

参考文献:『天、共に在り─アフガニスタン三十年の闘い』中村哲著・NHK出版

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