2020.08.29 17:00
夫婦愛を育む 128
…を迫害する者のために祈る
ナビゲーター:橘 幸世
苦労が人を成長させると頭では分かっていても、いざ大切な人のこととなると私たちは守りに入りがちではないでしょうか。
ライオンがわが子を崖の下に落とす話など知ってはいても、苦しむ子供を突き放すことができる親は少数派かもしれません。
配偶者や子供たちが職場や学校で難しい環境に置かれれば、その状況が早く改善されることを求めます。上司による仕事の振り分けや接し方が負担となって自分の愛する者が苦しんでいたら、上司を非難したり変わってほしいと願ったりしますし、教師の指導が厳しすぎて子供が息苦しさを感じていたら、教育者なのにどうしてそんな態度を取るのかと責めたくなります。
子供や配偶者ではなく、もし自分自身がそういう局面にぶつかった時、私たち信仰者は、この縁には何か意味があるのかもしれない、先祖からの清算すべきものがあるのだろうか、私が越えなければいけない課題だ、などと思うかもしれません。そして、「怨讐を愛せよ」という真の父母様の教えを実践しようと、相手のために祈ることでしょう。愛する訓練として、寛容であろうと努めます。
ところが、自分の大切な存在が同様の状況にあると、往々にしてその寛容度はぐっと下がります。心配が先走り、さまざまな妄想が生まれ、負の感情が去来します。近しい者に関するほど、素の感情が前面に出やすいのかもしれません。
そんなとき、どうしたらよいのでしょうか?
本人の乗り超える力を信じて上手にサポートするのはもちろんのこと、愛する家族がぶつかった難しい相手に対して、非難し変わることを要求するのではなく(そううまくいくことはあまりありません)、相手の善なる側面を思って、そこに神様が働かれることを祈っていくことが肝要かと思います(もちろん、本人のキャパを超えた試練であるならば、無理をさせずにその場から離れさせることが最善という場合もあるでしょう)。
イエス様は「自分を迫害する者のために祈れ」と言われましたが、家庭をもってみると、「自分を」だけでなく「愛する自分の家族を」という領域にトライしないと、私の心の器は小さなままだと感じます。
先生もじっと考えてみると、苦労をし、監獄に入っていって苦しんだのは何かというと、結局は心一つを大きくするためのものでした。ほかのことはありません。ほかのことはないというのです。心を大きくして何をするのでしょうか。神様が入ってきて暮らそうというのです。(1981年1月4日/『世界経典Ⅱ』1008ページ)
このみ言を読んだ時、改めて自分の心の小ささ、神様が入ってこられない己を感じました。
怨讐を愛することはすぐにはできなくても、怨讐のために祈ることなら、意志さえあれば始められます。難しい相手のために祈るところから、努力していきたいと思います。