日本人のこころ 13
熊本~『神の痛みの神学』
マルティン・ルターと北森嘉蔵

(APTF『真の家庭』234号[4月]より)

ジャーナリスト 高嶋 久

宗教改革から500年
 昨年はマルティン・ルターによる宗教改革から500年の節目の年でした。カトリック教会が絶大な支配力を持っていた中世ヨーロッパで1517年、ローマ教皇がドイツで贖宥状(しょくゆうじょう)(免罪符)を発売したのを、ルターが『95カ条の論題』を発表して批判したのが宗教改革の始まりです。

 青年時代、進路に迷うなか、雷雨に打たれ霊的な体験をしたルターは修道院に入ります。厳しい修行と学びの果てに、神秘主義の師に勧められ、キリストの十字架を見つめて覚醒され、キリストは神なのだと確信したルターは、パウロが書いた新約聖書ローマ人への手紙を通して「信仰によってのみ義とされる」という信仰義認説に到達します。それは、ローマ教会の「信仰と善行によって救済される」という教義に反していたので、ルターは異端と断定され、追放処分を受けます。

▲マルティン・ルター
ルーカス・クラナッハ画(1529年)

 しかし、ローマ教皇の支配に不満をもっていた皇帝や領主たちの間からルターの支持者が現れ、ザクセン選帝侯フリードリヒに保護されたルターは、聖書のドイツ語訳を完成させました。また、ルターの考えを記した印刷物が、グーテンベルク発明の活版印刷によって民衆の間に広まり、新しい宗教観が浸透していきます。つまり、宗教改革の背景には、土地の支配をめぐる対立や情報技術の発達という時代の変化があったのです。

 「真理は汝を自由にする」という聖書の言葉があるように、宗教は人々の救済、とりわけ心の解放を目的とするものです。ところが、世俗的な権力と結びつくと、統治の手段として使われてしまいます。ローマ帝国が313年のミラノの勅令で、それまで弾圧していたキリスト教を公認し、392年に国教にまでなったのには、キリスト教徒の信仰を揺らいでいた統治に利用するためという側面もありました。教会も信仰の共同体でありながら、世俗の権力組織であることには変わりないので、そうした面があります。それが端的に現れたのが、救いがお金で買えるという贖宥状でした。

 もちろん、それに対する批判や改革の声は数多くあったので、ルターがついにカトリック教会を離れ、新教(プロテスタント)を興し、それがヨーロッパに急速に広まるのに対して、カトリックの復興運動も起こります。折しも大航海時代で、未知の世界への布教を目指して宣教師たちが派遣され、その一人フランシスコ・ザビエルが1549年、鹿児島に上陸することになったのです。

 宗教改革に似た出来事は日本仏教にも起こります。百済の聖明王から欽明天皇に、外交的な贈答として伝来した仏教は、宗教的天才である聖徳太子によって建国の理念になると認められ、以後、律令制と仏教による国づくりが始まります。律令制は701年の大宝律令で、仏教は奈良時代、752年の東大寺・大仏開眼で一応の完成をみます。

 奈良仏教は宗教というより学問で、平安時代の仏教は上層部の人たちを対象とした貴族仏教でした。その一方で、行基のように庶民を対象に布教する僧もいて、その流れが大きくなるのが、法然の浄土宗をはじめとする鎌倉仏教です。宗教学者の町田宗鳳広島大学名誉教授は、法然は日本のルターだと言っています。救われるのにはお金も学問もいらず、ただ「南無阿弥陀仏」と唱えればいいというやさしい教えで、瞬く間に庶民の間に広まります。法然の教えをさらに徹底したのが親鸞の浄土真宗で、仏教各派の中で最大の信者数に発展しました。

日本発の「神の痛みの神学」
 ルターの教えに触発されてクリスチャンになり、「神の痛みの神学」を提唱し、日本発の神学として世界的に評価されたのが、熊本生まれの北森嘉蔵(かぞう)です。

 熊本は宗教的に興味深いところです。明治のキリスト教三大発祥地の一つで、植村正久の横浜バンド、無教会運動の内村鑑三の札幌バンドと同じように、熊本には後に同志社総長になる海老名弾正らの熊本バンドが生まれます。バンドとはグループのことで、幼い北森が遊んだ花岡山にその記念碑があります。

 法然の師である天台宗の僧・皇円(こうえん)は熊本県玉名生まれで、原始福音キリストの幕屋を興した手島郁郎も熊本生まれで、無教会運動に参加したのが始まりです。熊本城の隣にある加藤神社に祀られている加藤清正は熱心な日蓮宗の信者で、団扇太鼓(うちわだいこ)を叩きながらの平和運動で知られる、日本山妙法寺の藤井日達も熊本の生まれです。

 北森は1916年の生まれで、浄土真宗の熱心な信者だった祖母に連れられてお寺に通い、中学生の時に、母親がキリスト教の教会に通うようになり、母親は洗礼を受けましたが、彼は神に対する疑問から受けませんでした。

 旧制第五高等学校に在学中、佐藤繁彦の『ローマ書講解に現れしルッターの根本思想』を読んで感銘し、霊感を受け、ルーテル教会で受洗します。そして、佐藤繁彦の元で学ぶために日本ルーテル神学専門学校に進学したのですが、佐藤は急逝してしまいます。

 佐藤が説いたルターの根本思想を探求していた北森は、旧約聖書のエレミヤ書31章20節の聖句「わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない」に出会います。文語訳では「我膓かはらわたれの爲に痛む」となります。北森はそこに、キリストを敢えて十字架につけた、父なる神の痛みを発見したのです。

 戦時中にもかかわらず、恩師の勧めで北森が出した『神の痛みの神学』は戦後、神学書ながらベストセラーになります。敗戦で打ちのめされた人たちの心の救いとなったからでしょう。その後、『神の痛みの神学』は世界各国で翻訳され、賛同する神学者も現れました。今は講談社学術文庫に収められています。

 一度だけ北森先生の勉強会に出た折、「男はつらいよの寅さんと同じで、神様もつらいんですよ」と話していた笑顔が忘れられません。絶対的な神が痛むなど、それまでの神学では語られなかったことなので、北森の提唱は衝撃的でした。日本的心性で読まれたからこその、神の一側面と言えるでしょう。