2020.07.27 17:00
コラム・週刊Blessed Life 126
備中の聖人「山田方谷」のこと
新海 一朗(コラムニスト)
幕末期の日本において活躍した人々として、長州、薩摩、土佐、肥前などの英傑が挙げられることが多いのですが、長州の久坂玄瑞や薩摩の大久保利通、長岡藩の河合継之助、信州の佐久間象山など多くの烈士が聖人として尊敬の意を表した人物に「備中の聖人」とうたわれた「山田方谷(やまだ・ほうこく)」(1805~1877)がいます。
備中は岡山県の西部地域(高梁川流域)に当たります。幼少時から神童の誉れがあった山田方谷に、藩主板倉勝静(いたくら・かつきよ)は藩政改革を命じました。方谷45歳の時です。
方谷は藩主の信頼に応えるべく、七代改革(「上下節約」「負債整理」「藩札刷新」「産業振興」「民政刷新」「文武奨励」「軍制改革」)に取り組みます。
備中にあった松山藩は公称五万石でしたが、以前の検知のあいまいさ、不正確さによって、実際には一万九千石に過ぎず、そのため大きな負債を抱える事態に陥っていました。
このままでは、毎年二万両が不足する計算となり、藩財政の負債は十万両(現在の130億円)に達していましたから、その利息だけでも毎年一万両の支払いをしなければならないという危機的状況でした。
山田方谷は、綿密な計画を立て、なんと8年間で負債を完全返済し、他に余剰の十万両を積み上げたという驚異的なV字回復を遂げたのです。これは現代で言えば、「経営の神様」と呼ばれるにふさわしい業績です。巨大な赤字会社を利益で潤った優良会社に立て直したということです。
山田方谷は4歳の頃から書道の達人として近隣に知られ、儒学者の丸川松隠に学び、さらに藩校の有終館で学問を深め、さらなる高みを目指して、京都遊学、江戸遊学(22歳から32歳までの10年間)と徹底した真理探究の道を歩みました。
当時は、幕府公認の学問として、朱子学がありましたが、どうしても満足できず、道を求めていた方谷の前に、「伝習録」という書物が目に入り、それを読んで大いなる感動を覚えたのでした。
その著者は王陽明という人物でした。いわゆる「陽明学」のバイブルとなった書が「伝習録」だったのです。
「知行合一」(思いと行いの一致、思想を完全に実践躬行すること)の哲学に没入していった方谷が、やがて藩政改革を藩主から求められた時、脳裏にあったのは王陽明の思想を完全に実施するということであったに違いありません。
方谷が9歳の時のことです。一人の大人が「何のために学ぶのか」と方谷に尋ねた時、即座に、「治国平天下」(私は国を治め、天下を平和に保つために学問を積んでいます)と答えたといいます。
日本において、大塩平八郎や西郷隆盛が心酔した学問として「陽明学」は有名であり、後に内村鑑三が、陽明学はキリスト教の精神に近似していると看破したことが知られています。
江戸で、佐藤一斎(当代随一の儒学者)のもとで学んだ時、「理財論」という経済理論を、松山藩に戻ってからは「擬対策」という政治理論を書きました。
「事の外に立ち、事の内に屈せず」(物事の外に立って物事を考察し、物事の渦中に取り込まれることがあってはならない)という客観的視点によって、問題の本質を把握し、藩政改革を遂行したのです。
方谷9歳の時の、あの「治国平天下」という言葉のとおり、藩政改革の見事な模範を示した方谷は、生祠(せいし/生きている人の霊を祀る)として祭られ、領民の尊崇を集めました。
幕末、飢饉(ききん)のたびに死者が出る日本で、唯一、死者一人も出さなかったのが方谷の松山藩でした。