信仰と「哲学」51
関係性の哲学~真の統一とは

神保 房雄

 「信仰と『哲学』」は、神保房雄という一人の男性が信仰を通じて「悩みの哲学」から「希望の哲学」へとたどる、人生の道のりを証しするお話です。同連載は、隔週、月曜日配信予定です。

 「人間とは統一を求める存在である」「人間にとって、統一が喜びであり、統一が幸福である」と記してきました。

 しかしそれは、独裁国家に見られるような統一的諸様相(パレードや大会、統制された社会など)を意味するものではありません。

 統一は、特定の個人や集団などを中心として他を同化することではありません。暴力的強制力を持って他を支配する姿ではなく、経済的利害関係を中心に支配することでもありません。それは真の統一ではないからです。

 私たちがあるものを「知る」ということは、自己があるものと一致する、私とあるものとが一つになろうとすること、すなわち「統一」を目指そうとすることです。

 文鮮明師は次のように述べています。

 「先生は、自然を見るたびに、神様がこのすべてのものをどのように造ったのだろうかと深く考えました。木や様々な草、葉を見ながら、これらがどのようにして造られたのかを考えれば、限りなく神秘的です。何であれ、それに対して多くの関心をもたなければなりません。それに対する内容を知ってこそ、それを主管できるのです。
 私たちが自然のもつその本然の価値だけを知っても、言葉にできない福を受けます。そうすれば、自然が『私』を中心にして造られたという事実が分かるでしょう。しかし、人々は自然を見るすべを知りません。自然は本当に神秘的です」(『天聖経』第六篇 真の万物 第1章「万物創造とその意味」第一節「万物から学ぶ」の1より)

 一つになるということは、常に、私たちの主観的自己を没し客観的になるということです。

 ここでいう客観的とは、客体としての他者の立場に立つという意味です。単に知識においてだけでなく、意思(思いや考え)そのものにおいてもそのごとくにあることが重要であり、それが「多くの関心をもつ」という文師の言葉に現れています。

 「人を動かす」というのは人の本性を知り、それに従うのであり、自分を主管するというのは自分の本性をよく知り、従うという内容が必要です。
 このように、私たちの意思が「客観的」となればなるほど、それだけ客体を動かす力を持つことになるのです。結果として一つになるのです。

 釈尊やイエス・キリストが歴史を超えて万人を動かす力を持っているのは、その精神が真に「客観的」であったからといえるのでしょう。自己を滅することができる人は、最も偉大な人なのです。

 愛する花を見た時、即、私が花となっている、このような「統一」が喜びであり幸福なのです。