愛の知恵袋 118
誠を尽くせば、いつか実を結ぶ(下)
(APTF『真の家庭』239号[2018年9月]より)

松本 雄司(家庭問題トータルカウンセラー)

ウズベクの人々を救った劇場

 ナヴォイ劇場の完成から19年後の1966年、ウズベク共和国の首都タシケントが巨大地震に襲われ、ほとんどの建物が倒壊し、市は壊滅状態に陥りました。その時、ナヴォイ劇場は激震に耐え、ほとんど無傷で立っていました。そのため劇場と周辺の広場は市内最大の避難所となり、その後1000回も続いた余震から市民たちの身を守りました。また、日本人抑留者が建てた他の工場や学校などもほとんど倒壊せず、救助と復興に役立ちました。この話は瞬く間に周辺の中央アジア諸国に伝わり、彼らがソ連から独立した時、「日本を国づくりのモデルにしよう!」という機運が起こるきっかけになったと言われています。

1スム札(ウズベキスタンの通貨)に描かれるナヴォイ劇場(ウィキペディアより)

 1991年、ソビエト連邦崩壊と共に、ウズベク共和国は、『ウズベキスタン共和国』として独立。その初代大統領になったカリモフ氏は、1996年、劇場の建設記念プレートに「日本人捕虜が建てたもの」と書いてあるのを知り、「恩人である日本人に対してふさわしくない!」と言って、以下のように作り換えさせました。

 「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイ名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」

 大統領は幼い頃、母親からいつも日本人の働いている建設現場に連れて行かれ、「ごらんなさい、あの日本人の兵隊さんを。ロシアの兵隊が見ていない時でもまじめに働いている。あなたもそんな人になりなさい」と言って諭されてきたそうです。

 1999年、中山恭子氏がウズベキスタン大使として赴任したとき、あの当時、水力発電所の建設を取り仕切ったウズベク人の現場監督が、目に涙を浮かべながらこう語ったそうです。「きのう具合が悪そうだったが笑顔を向けてくれた人が今日は来ていない。どうしたのかと聞くと、『栄養失調で死んだ』という。それほどボロボロの体になりながら、愚痴も文句も言わずに、笑顔さえ見せながら、手抜きもせずにまじめに仕上げてしまう日本人でした。だから、今でもこの国の母親たちは子供たちに、『日本人のようになりなさい』と教えているんですよ」

ウズベクに咲く1900本の桜

 強制労働させたうえ多数を死亡させたという国際社会の批判をかわそうとしたのか、ソ連当局は1958年に、「各共和国の日本人の墓地は2か所だけ残して、あとは全て壊して更地にせよ」という命令を下しました。その時、ウズベク政府は表向きには2か所を報告しましたが、他の墓地も地元の住民たちがこっそりと守り抜いてくれたのです。

 中山恭子大使と夫の中山成彬氏(元文部科学大臣)は、荒涼とした土地に盛り土だけの寂しい日本人墓地を整備したいと考え、元抑留者や地元の支援者から寄付金を集め、現地政府に対して、「このお金で日本人たちの墓地を整備してください」とお願いしました。

 するとスルタノフ首相は、「ウズベキスタンで亡くなった方のお墓ですから、日本人墓地の整備は私たちが行います。これまで出来ていなかったのが大変恥ずかしい」と返答され、直ちに墓地の調査と整備を指示しました。

 驚くことに、どの墓地でも地元の人々が進んでボランティアで作業に協力してくれたのです。彼らは草を刈り、土地を整備し、柵を造り、墓石をそろえ、美しい墓地公園にしてくれました。

 そこで、中山夫妻は集めた寄付金でパソコンや教材を買いそろえて各学校に寄贈し、さらに残ったお金で、桜の木を贈ることにしました。生きて祖国の地を踏めなかった人たちに、せめて春になれば、桜の花を見せてあげたかったのです。

 今では、全ての日本人墓地とタシケント中央公園には、日本から贈られた1900本の桜の木が見事な花を咲かせています。

 話を最初に戻しますが、抑留者だった叔父の長男の娘たちは双子の姉妹でした。叔父が亡くなる前、私が家を訪問すると、「双子の孫がね、東京大学と九州大学に合格したそうなんだ」と言うのです。「ほぉー、良かったですね~」と言うと、少し照れながら嬉しそうに笑いました。

 地元に残って両親を助けてきた次男も良い家庭を築いています。誠実だった叔父夫婦の苦労一筋の人生に、天が報いて下さったんだなあ・・・と、そんな気がして、感慨深いものがありました。

 「苦境にあっても誠を尽くせ。いつか必ず実る日が来る」そう教えられたような気がします。