愛の知恵袋 117
誠を尽くせば、いつか実を結ぶ(上)
(APTF『真の家庭』238号[2018年8月]より)

松本 雄司(家庭問題トータルカウンセラー)

他界した叔父の冥福を祈って

 今年も盛夏を迎え、昨年94歳で他界した叔父(父の弟)の初盆が近づきました。私たちが「サカエさん」と呼んでいた叔父は、松本家の三男の立場であったので、シベリヤから帰国後、親戚から請われて財前家の養子となりました。

 土木建設会社で働いている頃、奥さんと結婚して二人の息子を授かり、その後、家業の食料品店を引き継いで店を拡大し酒類販売も始めました。家族と地域のために一生涯、身を粉にして働いていた叔父夫婦の姿を思い出すと、なぜか胸に熱いものがわいてきます。

 私は幼い頃からよく遊びに行ったものですが、叔父はいつもおおらかで、さっぱりした男らしい人柄でした。先に亡くなった奥さんも本当にいい人で、私を息子のように可愛がってくれました。働き者の叔母は、晩年は腰が90度に曲がっても、いつも愛想よく店で働いていました。

 何よりも印象深いのは、叔父たちは周りがうらやむほど仲の良い夫婦だったことです。

 そんな叔父でしたが、体格も良く元気であったのに、ある時から膝を痛めて、それからは思うように動けなくなっていきました。長年、商品を配達していたので膝や腰を痛めたようでしたが、私には、叔父が若い時に体を酷使したことも原因の一つではないかと思えてなりません。

 戦時中、叔父は徴兵されて満州に行き、終戦後、ソ連によって抑留されました。極寒のシベリヤで4年間強制労働をさせられた末、やっと生き延びて故郷に帰還したのです。

 私は一度も叔父から抑留時代のことは聞いたことがなかったので、叔父の息子たちに尋ねてみましたが、「実は、親父は何度か話そうとしかけたことがあったんですが、途中で胸が詰まってしまうようで、話が続きませんでした…。よほどつらい経験をしたんだと思います」ということでした。

航空機から見た東シベリア平原
(ウィキペディアより)

過酷だったシベリヤ抑留

 第二次大戦末期の194589日、ソ連は日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告。満州へ侵攻し、その後、樺太や千島列島も占領しました。823日にはスターリンが、国際法を無視して、日本軍捕虜をソ連内の捕虜収容所に移送し、強制労働をさせるよう命令を下しました。

 これによって、将兵はもちろん、在満州民間人や開拓移民団の男たちも少なからず拘束されました。彼らはまず、日本が満州に築いてきた産業施設の工作機械や設備を撤去してソ連に搬出するために使役され、その後は、約千名ずつの作業大隊に編成されて、ソ連国内の各地に移送されました。その数は65万人と言われています(57万、70万、200万とする説もある)。

 彼らは、冬は零下30度にもなる過酷な環境のなかで、森林伐採、鉄道建設、道路建設、ダム建設、鉱山労働などに使役され、約6万人が死亡しました(9万、34万とする説もある)。抑留者総数や死亡者数の詳細はいまだに不明で、今も遺骨収集と調査は続いています。はっきりしていることは、194756年に行われたソ連から日本への帰国事業で生還できたのは、473000人であったということだけです。

ナヴォイ劇場建設の秘話

 そんな中で、今も“ナヴォイの奇跡”として語り継がれるある史実をお話ししたいと思います。抑留者のうち、中央アジアのウズベク共和国には25000人が送られ、水力発電所・運河・道路・工場・劇場の建設や炭鉱などで使役され、1008名が死亡したと言われます。

 ウズベクに送られた抑留者の内、タシケントのナヴォイ劇場の建設には、最初に永田行夫大尉以下200余名、途中から若松律衛少尉を含む200余名が加わり、計457人の捕虜が動員されました。彼らは工兵や整備兵や満鉄技師など何らかの技術関係に経験のある者たちでした。

 ナヴォイ劇場は、著名な建築家アレクセイ・シュチューセフによって設計されたレンガ造り3階建てのビザンチン風建築の豪華絢爛なオペラハウスです。ロシヤ革命30周年に当たる194711月までに完成すべく建設を始めましたが、第2次大戦勃発で工事が中断され、土台と一部の壁や柱ができたままで、野ざらしになっていました。この工事を再開し期日までに完成させよという命令でした。

 先の見えない状況と粗末な食事での労働で絶望に陥る仲間たちに、永田大尉は、「必ず生きて日本へ帰ろう! やるからには後世に恥じない劇場を造ろう!」と励ましました。彼らは「もう一度、日本の桜を見よう!」という合言葉を胸に、心血を注いで劇場の建設に当たりました。

 はじめは、「こいつらはナチスと同じ鬼畜野郎だ!」と言って軽蔑の目を向けていたウズベク人の監督やソ連の収容所長も、捕虜の身でありながらも整然と行動し、まじめに作業に打ち込む彼らの姿を見て、少しずつ変わっていきました。

 地元の住民たちも次第に同情するようになり、子供や老人がこっそりと宿舎に食べ物を置いてくれたりしましたが、捕虜たちはそのお礼に、手作りのおもちゃを作って置いておきました。

 工事も完成間近のある日、長尾清という日本人が高所から転落して死にました。すると翌朝、彼の死を知った地元の人々が、花束を供え涙を流してくれたそうです。こうして、194710月、遂に、ソ連4大劇場に数えられる秀麗なナヴォイ劇場は完成しました。

(次回に続く)