夫婦愛を育む 114
女性は男性を理解できる?

ナビゲーター:橘 幸世

 先々回の記事を書くに際し、『レ・ミゼラブル』を久しぶりに開いていたところ、最初に読んだ時は気にも留めなかった一節が目に入りました。

 主人公を救った司教の館には、信仰心篤い二人の老婦人、彼の妹と女中のマグロワール夫人が同居していますが、彼女たちを著者はこう描写しています。

 「…この司教館のふたりの女性は、男子が自己を理解するよりも一層よく男子を理解する女性のあの特殊の才能で、司教の処世法にすなおにしたがうすべを心得ていたのである。……そんなとき彼女らは心配でたまらなくなるのだが、結局なすがままに任せた。時としてマグロワール夫人は前もって進言をこころみる。しかし、そこまでであって、決して途中やあとでいうことはなかった。……彼女らは彼を神に託しているのだった。…」

 女性向けの講座で私は、男女は本性的に異なるので、互いの尺度では到底相手を理解できない、男性心理をきちんと知らないと幸せにやっていけない、と詳しく説明しています。

 参加者の多くが、「目からウロコ」「夫に対してNG言動ばかりやっていました」「学校で教えてくれればいいのに」という感想を述べるのも事実です。

 が、著者のユゴーは、男性本人よりも男性を理解する特殊な才能が女性にはある、と書いています。

 確かに、人の気持ちを察知するのは一般的に男性よりも女性の方が得意です。身近な存在に対しては、自分の感情が混ざって客観的に見えなくなるかもしれませんが、冷静に観察できる相手に対しては、上手に気持ちをくみ取ります。

 では、現代女性の多くがなぜ夫に対してそれができないのでしょう? 男女平等教育の弊害でしょうか? ユゴーが描いた老婦人たちの何が違うのでしょうか?

 考えてみました。

 彼女たちは司教を完全に主体として立てていて、自分たちは対象に徹しているからではないか、と思いました。

 そこに“自分”がないから、相手がよく見えるのです。司教は、教会に入ってくるお金の大半を困窮している人々のために使っていて、自分たちは質素の極みです。司教の健康を案じつつ最低の予算でやりくりする二人は、思うところがありつつも、司教の意向を尊重します。

 引用個所にあるように、意見を言うことはあっても主張はせず、最終判断は司教に任せます。

 夫に助言したい時はこうしましょう、と私が講座でお話ししている内容の、正にお手本です。「夫に働く神を信じましょう」で講義を締めくくっていますが、この点でも通じています。

 この一節に出合ったのも、何か意味があるのでしょう。神様から与えられた女性としての特質を、夫を支える上でもっと生かせるよう精進していきたいと思います。