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心のあり方 44
自然は神様の贈り物

 アプリで読む光言社書籍シリーズ第11弾、『文鮮明先生の自叙伝に学ぶ~心のあり方』を毎週木曜日配信(予定)でお届けしています。
 なお、この記事に記載されている「自叙伝『平和を愛する世界人として』」のページ数は創芸社出版のものです。

浅川 勇男・著

(光言社・刊『文鮮明先生の自叙伝に学ぶ~心のあり方』より)

第十二章 一つの岩、一瞬の風にも神様の息遣いが隠れている

自然は神様の贈り物

 私たちが、自然に囲まれながら生きているのに、価値を認めず、感動がないのは、自然万物の本質的意義が分かっていないからです。文鮮明先生のみ言によると、自然万物には三つの意義があります。

 第一には、自然万物は、神様の愛の贈り物、プレゼント、なのです。親なる神様が子女である人間の幸福のために下さった贈り物なのです。それゆえ、全ての自然万物には神様の愛が込められています。

 ある貧しい家の子供がいたとします。学校から帰ってきて机の上を見ると、一本の鉛筆が置いてありました。子供はその鉛筆を握り締めて泣きました。貧しさの中で必死に働く母親の精いっぱいの誕生日プレゼントであることを悟ったからです。

 私たちが通り過ぎる道端の木や草は神様の愛のプレゼントで、親の愛が込められているのです。「道を歩いていて一株の草を見ても、涙を流すことができなければなりません。一本の木を抱きかかえて泣くことができなければなりません。一つの岩、一瞬の風にも、神様の息遣いが隠されていることを知らなければならないのです。自然を大切にして愛することは、神様を愛することと同じです」(自叙伝316ページ)

 もし、私たちが、全ての自然万物に神様の愛を感じられるなら、仕事や学校の道筋で、愛で満たされるのです。

 神様と自然と言えば、私たちは神社にお参りに行くことがあります。参拝者は、手をすすぎ、社の前で、合掌して、神様と向き合います。では、神様は、神社の社にしかいらっしゃらないのでしょうか。鳥居をくぐって参道を歩くと、両脇に、杉の木などが、凜(りん)としてそびえたっています。風がそよぎ、木のささやきが聞こえます。この静寂の中に、神様の愛が込められているのです。参道そのものが、神様の愛との出会いなのです。神社に限らず、教会に行くとき帰るとき、既に、道端で神様の愛に出会っているのです。

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 次回は、「自然は神様の分身」をお届けします。


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