2020.04.12 22:00
真理とは、「実体み言」である天地人真の父母様
第8回 独り子のみ言と、独り娘のみ言について
教理研究院
今回は「〝真理〟とは何か」について真のお父様のみ言から考察してみます。独り子(文鮮明総裁)が語られるみ言と、独り娘(韓鶴子総裁)が語られるみ言は、いずれも神から出てきているみ言であり、矛盾はありません。しかしながら、〝矛盾しているのではないか〟と考える人もいることから、以下、この問題について論じてみることにします。
なお、これらの内容を総合的に理解し把握するためには、「真の父母様宣布文サイト」の掲載文や映像をごらんください。
注:真の父母様のみ言や『原理講論』『統一思想要綱』からの引用は「青い字」で表記しています。
四、真理のみ言は、「真の父」と「真の母」から出てくる
(2)独り子(男性)のみ言と、独り娘(女性)のみ言について
復帰摂理の中で、神のみ言が最初に授けられたとき、それは〝二枚の石板〟として現れています。すなわち、モーセの十戒のみ言は〝二枚の石板〟に記されたのでした。
「み言によって創造されたアダムとエバは、完成したならば、み言の『完成実体』となるはずであった。……み言を記録した二つの石板は、復帰したアダムとエバとの象徴体であって、将来、み言の実体として来られるイエスと聖霊とを象徴した」(『原理講論』372ページ)
二枚の石板は、将来の「実体み言」であられる天地人真の父母様、すなわち「真の父」(独り子)と「真の母」(独り娘)のおふたりを表しており、両者から神のみ言が語られることを示しています。
その場合、前述したように神が顕現されるときに男性的に現れることもあれば、女性的に現れることもあるように、み言が語られるときも男性的に語られることがあれば、女性的に語られることもあるのです。表現のしかたが異なるのです。ただし、唯一なる神から出てくるため、そこに矛盾はありません。しかし、その表現のしかたにおいて、異なる表現が用いられることもありうるということです。
例えば、聖書の最初の書である創世記の一章から二章4節aと、二章4節bから二章25節とでは、天地創造の順序が異なっています。神名さえもエロヒムとヤハウェという明らかな違いがあります。創世記一章から二章4節aでは、天地創造は六日間でなされ、六日目にアダムとエバが創造され、七日目に神は休まれたと記しています。一章の表現は壮大であり、神は姿を見せず、言葉だけを用いて天地創造を行っています。
一方、創世記二章4節b以降では、神は土のちりで人(アダム)を造り、彼のためにエデンの園を設けられます。神はアダムにふさわしい助け手を得ようと、さまざまな動物を造りますが、ふさわしい助け手が見つからず、アダムのあばら骨から最後にエバを造っています。その表現は素朴であり、神は人間と親しく会話をし、エデンの園の中を歩まれる神の足音まで聞こえています(三章8節)。
このように、聖書の冒頭部分で、神は姿を見せずに壮大なスケールで顕現したかと思えば、日の涼しい風の吹くころ、園を歩かれる素朴な姿で顕現されたりもします。このように、異なった姿で神が顕現しています。これらの二つの創造物語は、矛盾するように感じられますが、いずれも神の啓示であり、真理です。このように神は異なった表現で、男性的かつ女性的に語られ、現れたりもしているのです。
真のお父様は、男性と女性との違いについて、次のように語っておられます。
「男性と女性は、そもそも合うようにはなっていないのです。愛しながら合うようになっているのであって……それが原則なのです。見てみなさい。(男性と女性は)顔をみても違うし、身体をみても違うし、食べるのをみても違います。……みんな違います。それを男性と女性が合うと考えるのがいけません。……合うのはむずかしいのです。愛することによって合うのです。……それが神の創造の傑作です。完全に合わないようになっているのが、完全にひとつになるようになるのは、愛することによってです。……そうでしょう。夫婦になるには、愛がなければなりません。愛した夫婦で通じるのです」(『祝福』1976年秋季号32ページ)
私たちは、独り子(男性)のみ言、および独り娘(女性)のみ言と対するとき、それらに真摯に接し、相和合させて捉えていかなければなりません。すなわち、始めのほうで論じたように、言葉(み言)それ自体が真理ではありません。どこまでも「最終一体」となられた真の父母様こそが真理なのです。したがって、言葉の揚げ足取りをするかのように、その語られたみ言を批判的に捉えようとしてはなりません。私たちは、表面的な言葉にとらわれすぎてはならず、その本質的な意味を「原理」に照らし合わせて酌み取る努力をしなければなりません。
真のお父様は「天地人真の父母定着完了」を天宙に宣布するとき、「あなた方も批評をせず、『この言葉どおりに一度生きてみたい』と考える人が、福を受けて生きることができる」(「KMS中和新聞」2012年4月27日号)と語っておられます。私たちは、このお父様の忠告に従って、両者の真理である「実体み言」に侍って生きようとする謙虚さを持つ必要があるのです。
私たちは、二千年前にイエス様が語られたみ言につまずいたユダヤ教指導者のようであってはなりません。彼らは、イエス様のみ言の本質を見ず、言葉尻ばかりを捕らえようとしたのでした。
「律法学者たちや祭司長たちはイエスに手をかけようと……機会をうかがい、義人を装うまわし者どもを送って、イエスを総督の支配と権威とに引き渡すため、その言葉じりを捕(とら)えさせようとした」(ルカによる福音書二〇章19~20節)
彼らのように言葉尻を捕らえ、批評ばかりするなら、永遠の命に至ることはできないでしょう。