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スマホで立ち読み Vol.8
『真の愛を育む道』(2)
真の愛と偽りの愛の違い①

 「スマホで立ち読み」コーナー第8弾で取り上げたのは、『真の愛を育む道』(世界平和統一家庭連合 青年学生局)です。
 二世圏に贈る「純潔」と「祝福」、そして「幸せ」を説く、真の父母様のみ言集がついに立ち読みできるようになりました!
 テーマ毎になっていて読みやすいだけでなく、学びを深める「ワークシート」のページも掲載しています。

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第一章 愛って何だろう?

 「愛」と聞いて、皆さんはどんなイメージを持ちますか? 今、私たちは「愛」という言葉に囲まれて生活をしています。話題になっているドラマや映画などは、だいたい「愛」が主なテーマに関わっていますし、親が子供のために頑張って働いたり御飯を作ったりするのも、そこに「愛」があるからだといえます。
 それでは、「真の愛」は、普通の「愛」とどこが違うのでしょうか。この章では、「真の愛」の意味と、それをどうやって育むかについて学びます。普段、使っている「愛」という言葉の意味を改めて考えながら読んでみましょう。

*『幸せをもたらす真実の愛を学ぶ二世純潔講座』
第一章「愛の二面性――真の愛と偽りの愛」も参照しましょう。


(1)真の愛と偽りの愛の違い

 愛は、自分を中心とした立場では成立しません。相手に代わって、相手を支持して敬い、相手を立てるところで、初めて「愛」という言葉が成立するのです。愛する人に、「こいつ! お前は私の僕だ」と言いますか。相手を誰よりも尊重し、誰よりも相手のために生きようというところで、愛が成立するのです。自分を中心として、「お前は私の言うとおりにしなさい」と言うのなら、それは愛ではありません。
(一九七一・三・二一)

 神様の真の愛は、相手のために無限に与えようとします。愛の心を持った父母は、すべての子女が父母よりも立派になることを願うので、子女のために大きく与え、さらにもっと大きく与えようとします。愛し合っている夫婦も、やはり相手が自分よりも素晴らしい人間になることを願うので、相手のために投入し、さらに投入して忘れるのです。
 このように、真の愛は相手のために投入し、また投入しようとするところから、その作用が誘発されます。神様は人間のために、真の愛の主体的な立場から与え、さらに与える作用を続けることによって、永存されるのです。
(一九九二・八・二二)

 「真」というのは、必ず神様が中心にならなければなりません。人間を全体的に取りまとめ、主管できる決定的な基盤を持つとき、真が成立するのです。その基盤ができなければ、「真」という言葉は成立しないのです。真の起源は、神様です。神様がいらっしゃることによって、真が成立するのです。ですから、神様が離れてしまえば、真も離れるようになります。そこには、真ではない、悪の起源が生まれるのです。
 真があってこそ、真なる結果をもたらすことができます。言い換えれば、神様がいらっしゃることによって、神様の願いが成就するというのです。「真」や「善」という言葉は、人間を中心として立てられたものではなく、神様を中心として立てられたのです。
(一九六九・九・一四)

 真の愛は、誰もが語れるものではありません。唯一、神様だけが、本当に真の愛で愛することができ、真の愛の絶対主人となられるのです。ですから、神様の真の生命も、神様の真の血統も、神様の真の良心も、真の愛を必要とします。神様の最も根本的な本質が、真の愛なのです。
 また、この真の愛と関係を結ぶには、神様と関係がなければなりません。自分のお父さん、お母さんがけんかをせずに暮らしているからといって、真の愛で愛しているとはいえないのです。恋愛をしている若い男女が、互いに命を懸けて愛し合うとしても、それが真の愛というわけではありません。神様が介在していなければ、真の愛ではないのです。真の愛は、必ず神様を中心としなければならないのです。

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 次回もお楽しみに!



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