歴史と世界の中の日本人
第23回 新渡戸稲造
太平洋の懸け橋となった日本人

(YFWP『NEW YOUTH』179号[2015年5月号]より)

 『武士道』の著者、五千円札の顔としても知られる新渡戸稲造(1862~1933)は、札幌農学校教授、台湾総督府民生部殖産局長、第一高等学校校長、東京女子大学学長、国際連盟事務次長、太平洋問題調査会理事長など、生涯にわたって日本と世界において重要な仕事をした近代日本人の一人である。

▲新渡戸稲造(ウィキペディアより)

 『武士道』(1898年)は現代にあってもよく読まれている名著の一つである。
 この本が英文で書かれた背景には、「異文化間における相互理解」という、今日のグローバル時代にも通じる問題意識があった。

 新渡戸がドイツ留学中にリエージュ在住の法学者ド・ラブレーを訪ねた際、話題が宗教教育のことになった時、教授が新渡戸にこう尋ねたという。
 「日本の学校では宗教教育は何を授けるのか」

 新渡戸はこう答えた。
 「宗教など教えません。仏教も神道も学校では教えません」

 「それでは、…どうやって善悪の区別を教えるのか」

 同じような質問は、米国フィラデルフィアで結婚した妻、メリー・エルキントンからも受けていた。
 米国人の妻にとって理解しにくい日本の宗教や習慣についてたびたび尋ねられていたのである。

 新渡戸には若い頃から胸に秘めたものがあった。それは「太平洋の懸け橋になりたい」という強い思いだった。
 それゆえ、武士道』を著すに当たっても、単なる日本文化の紹介であってはならなかった。日本の道徳的観念を伝えるためには、封建制度と武士道の本質を解明し説明しなければならなかった。著作を日本と西洋との間に橋を架けるものとしなければならなかったのである。

 日本がロシアとの戦争(1905)に勝利したことで世界中の関心が日本に向けられたという事情もあり、英文の著作は大反響を呼び、版を重ねた。
 高い評価とともに、さまざまな言語に翻訳され、米国のみならず世界中に広がっていった。

 新渡戸の最大の偉業は、日本と西洋、日本と世界の懸け橋とならんとする、その志を貫いて生きたことである。

 客死した講演先のカナダを訪ねたのも、満州事変以来、悪化する米国の対日感情に対して、その誤解を解き、日本を救うためであった。

 まさに、新渡戸稲造は世界平和のために殉じた日本人であったのである。

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 次回は、「世界を救う縄文日本の文化力」をお届けします。