2019.12.11 17:00
歴史と世界の中の日本人
第20回 織田楢次
二つの民族の共存の道を示した青年宣教師
日本統治下の朝鮮でキリスト教の宣教に従事した一人の日本人青年がいた。
織田楢次(おだならじ/1908~1980)である。
当時、日本は非キリスト教国であったが、朝鮮にはキリスト教が驚異的に浸透していた。
なぜか。
日本統治下の朝鮮と、聖書に記された古代イスラエルの社会状況が極めて類似していたからだ。
イスラエルの民はエジプトで奴隷状態に置かれ、苦難の生活を強いられていたが、朝鮮のキリスト教徒たちは日本の支配を受けている朝鮮民族の運命をイスラエルの歩みと結び付けて考え、日本をエジプトと同一視した。
彼らは旧約聖書の「出エジプト記」で描かれたモーセのような民族の指導者を待望していたのだ。このような救世主待望論は、独立を求める社会運動へと発展していった。
朝鮮総督府は治安維持のためにこの運動を潰(つぶ)さなければならなかった。
1919年の「三・一独立運動」はまさにそのような両者が激突した最大の事件であった。
独立運動の大きな基盤になっていたキリスト教を潰そうとし、1930年代に入ると総督府は神社参拝を強要するようになる。
楢次が伝道を始めた時期の朝鮮はそのような状況にあった。
織田楢次はなぜ、朝鮮の人々を伝道しようとしたのか。彼は、当時の日本人の朝鮮人に対する差別や侮蔑(ぶべつ)に対して憤っていた。
「同じ人間なのに、どうして差別されなければならないのか」。
時には侮蔑した日本人に喧嘩(けんか)を挑んで、朝鮮人を擁護した。
1928年、聖書学舎を卒業した楢次は神の声を聞く。
「お前は朝鮮に行け」
楢次は三カ月間の祈りの中で朝鮮行きを決意した。
しかし、朝鮮の人々にとって日本人は怨讐であった。
加害者が被害者に「罪を悔い改めよ」「敵を愛せよ」「7度を70倍するまで許せ」とキリストの愛を説くことができるのだろうか。
朝鮮で伝道しようと思えば、自分が朝鮮人になり切らなければならなかった。
伝道活動は独立運動とみなされ、当局の拷問を受けることもあったが楢次は屈しなかった。
織田楢次は、張り裂けるような思いを朝鮮の人々と分かち合った。
その生涯は、二つの民族の共存を神の愛のもとでなそうとするものであった。
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次回は、「百年後の先見を持つグローバルな日本人」をお届けします。