歴史と世界の中の日本人
19回 今西錦司
未踏の境地を開いた挑戦者

(YFWP『NEW YOUTH』173号[2014年11月号]より)

 今西錦司(1902~1992)は、登山家にして、日本の霊長類研究の創始者として知られる。

 学者としての今西は、昆虫学から始まって、生態学、動物社会学、霊長類学、自然学と学問領域を変遷した。第二次大戦後は、京都大学理学部と人文科学研究所でニホンザル、チンパンジーなどの研究を進め、日本の霊長類社会学の礎を築いた。

▲今西錦司(ウィキペディアより)

 西洋では、社会とか文化というものは人間特有のものであると信じられてきたが、今西はそれに対して群れを作る動物には生まれながらにして持つ本能的行動だけでなく、群れの仲間から習って後天的にできるようになる文化的行動があると主張した。
 今日これを疑う者はないが、当時にあっては画期的な主張であった。

 今西は常に未知の世界への挑戦者であった。登山においては前人未到の山を目指した。
 登頂した山は13歳の時に登った愛宕山(京都府)から85歳時の高丸山(兵庫県)に至って1,522に達した。

 今西の学問は自然科学の領域を超え、哲学的、宗教的ですらあった。
 科学者であったが、科学を超えたその先にあるものに関心を注いだ。

 今西がダーウィン進化論に異議申し立てをしたことの今日的意義は大きい。
 今西進化論は現代の「デザイン理論」に通じるものである。

 今西学問の特徴はその徹底したフィールド・ワークにあった。野外での綿密な調査が学問を支えていた。

 今西門下の一人、文化人類学者の梅棹(うめざお)忠夫はこう証言している。「青年たちに対する今西の指導は徹底したものであった。常に、自然を直接に自分の目で見よ、というのが基本であった。そして直接の観察で得た事実をどう解釈するかを議論するのである」。

 議論の様子は、「まるで知的格闘術の道場」であり、「この知的格闘においては、常に自分の目で確かめた事実と自らの独創的な見解が尊重された」のである。

 日本はアジアにあってノーベル賞受賞者輩出国である。
 今西学問の伝統はとりわけ日本の科学分野のノーベル賞受賞者輩出の苗床となっていると思えてならない。

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 次回は、「二つの民族の共存の道を示した青年宣教師」をお届けします。