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創立60周年記念企画 第1弾
日本統一運動史 9
日本留学時代⑧

 日本家庭連合(旧日本統一教会)創立60周年記念企画、第1弾は『日本統一運動史~文鮮明先生御夫妻と日本の統一教会および統一運動の歩み』をお届けします。
 創立40周の際に発刊されたこの書籍は、日本における文鮮明・韓鶴子総裁夫妻の貴重な歴史的足跡と、多岐にわたる統一運動の歴史をまとめた一冊です。
 今、改めて読んでおきたい、日本の統一運動の歴史を振り返る連載です。

歴史編纂委員会・編著

(光言社・刊『日本統一運動史~文鮮明先生御夫妻と日本の統一教会および統一運動の歩み』より)

第一章 メシヤとしての準備時代における真の御父様と日本
(1941年から1945年8月15日まで)

二、 日本留学時代(1941.4.1〜1943.10)

(13)抗日独立運動

 真の御父様は、韓国人留学生の秘密結社を組織して、中国の重慶に移った大韓民国臨時政府の金九(キムグ)氏(1876〜1949年)と連絡を取りながら地下運動を展開されました。

 韓国人留学生の取り締まりは、早い時期から重視されていました。1919年の2・8独立宣言や3・1独立運動に、韓国人留学生が指導的な役割を果たしました。それゆえ、日本の官憲の韓国人留学生に対する監視、取り締まりには厳しいものがありました。韓国人は、1937年の日中戦争が開始された前後から、どんな会合を開くにも、必ず警察に届け出なければなりませんでした。そして必ず特高課の刑事が会合に臨席したのです。言葉は日本語に限定され、会合で語られる内容は、特高によって書き写され、内容もチェックされました。

 1940年6月、在日韓国人を監視するために中央協和会が設立されました。さらに、韓国人留学生を取り締まる機関として、1941年2月、「朝鮮奨学会」が設置され、東京の新宿にその東京出張所が開設されました。1941年末、在日韓国人は約157万人。その中で学生が約2万6700人でした。その学生の6割近くの約1万5300人が東京に集中していました。1942年12月当時、東京にある留学生がつくった団体数が67あり、その総人数が8693人です。その団体の一つが早稲田高工朝鮮同窓会でした。

1.  御 言
①「先生はこの道を出発した時にね、死ぬのは何千遍、何万遍、覚悟したかわからない。死ぬのはね。今もそうである。しかし一番恐れるのはね、先生は死ぬのが恐ろしいんじゃない。一番恐ろしいのは何かと言うと、先生がいなかったらどうするか。こういう摂理上のすべてのことがわからない。誰が責任持つの? 誰も責任持つ者がないんだね。それが一番恐ろしいんだ。…何千年生きてもそれは同じだ。しかし、世界人類は先生がいなかったら、責任持ってやる者がいない。それが一番怖い。それ、怖いと言って自分のために怖がるんじゃないよ。人類のために…。

 それを思った時に腹帯を締めて命をかけてやる。だから先生ね、死ぬのは怖くない。今までまあこういうことやりながら、拷問もたくさんされた。本当はね、韓国は日本に36年か40年支配されたでしょう。そのとき先生は、日本の警官に随分拷問されたよ。それを思えば、本当に昔は、国を愛せない者が天を愛せないというんだね。…それで地下工作した。…だから僕は神社参拝絶対しない。したらいけない。それで逃げるには、日本が一番いい。そして黙々とやる。」(1965.10.8)

②「この国はいつまでに滅びなければならない、天の復帰摂理のプログラムにおいて、時が来れば、その時に該当しうる期間になれば、滅びなければならないというのです。そのような心をもって、東京駅に降りる時から戦ってきたのです。話はしないけれど、道を行きながら、『私が歩いている道よ、お前は知っているだろう、韓民族が行く道を』と語りかけ、木を眺めても、『怨讐の地にある万物よ、お前は天に属するものであるから私を知っているだろう』と語りかけて歩いたのです。神様の息子が一線の将兵になり、サタン世界を征服するためのゲリラになっていたのです。それゆえに、先生は知らないことがありません。学校に行くようになれば、事務所の責任者に会って、学校の秘密を調査しました。日本がどうだということをみな知って、どこまでもつだろうか、ということを占っていました。それから、大学総長から高位層の大臣の家庭の仕事までしました。私が字を上手に書いたので、それが可能だったのです。それで日本の背後の黒幕だとか、腐敗した内容をよく知っているのです。」(『真の御父母様の生涯路程』①、P.211〜212)

③「皆さんは、国を失ってしまった悲しさを経験していません。先生はそれをよく知っています。大韓民国が日帝の下で呻吟(しんぎん)している時、先生も日帝に対抗して戦ったことがあります。私は、日帝時代に地下工作をした人なのです。そのとき、『何か問題があれば、全部私に罪を押しつけなさい』と言いました。私はそのとき、留学生を管理していました。責任者だったのです。そうして、『死の境地に行くなら、私に罪を押しつけなさい』と言ったのです。文先生は正義のために、首を既に投げ出してしまったのです。気の小さい男ではないのです。皆さんは知らないけれど、玄界灘を渡り、釜山から安東まで列車の下に張りついて行くようにして、上海の臨時政府に派遣する、そのようなこともしました。安東まで汽車で行くのに8時間から9時間ですが、そのようなことまでしたのです。そうして北京で金九先生の指揮下に入った者たちは、最近の情報によると、中国でも有名な人たちになりました。そのような地下運動をしたのです。日本の帝国主義をどのように克服するか。そのためにいろいろな工作も行い、地下運動もして、最高の実力者たちにも連結して、そうした道を開拓したのです。昨日のことのように、忘れられません。先生の心全体を投入したために、忘れられないのです。」(『真の御父母様の生涯路程』①、P.212〜213)

④「友達を組み合わして、あるいは東京に来ている留学生の背後関係、留学生の組織を強化しながら、そのときの北京にいた金九氏と背後の連絡をするようないろいろなことをやって来たんですよ。ある友達には関釜連絡船を越える時には、その荷物の中にね、一つの箱の中に、それは落ちこぼれて荷物として釜山に送られ、それから釜山から新義州まで行くには、汽車のそのレールの下、汽車のその車、車輪の上の、そこに乗って逆さまになって、それから何時間となく、そういう連絡をしたこともあるんですよ。それで、日本の地において、日本の国家に対しては戦ったけどね、日本人に対しては、そう、それほど怨讐みたいには扱わなかったんですね。友達、あるいは何も知らない友達に対しては共にそれは勉強しながら日本の主権、そういうものに対しては、生命を懸ける反対をした。そういうことをやったことがあるんですよ。」(1974.5.12)

⑤「二十代の時に日本の警官によって拷問も受けました。そして戦ってきました。むちで打たれ、拷問されながらも、先生は堂々としていました。そのようなことを忘れることができません。四ッ谷の橋の欄干の柱を抜いて、戦った青春時代を忘れることができません。」(『真の御父母様の生涯路程』①、P.214)

▲新宿区戸塚警察署(1990年撮影)

⑥「政権下時代、牢屋に何回も行ったことがあるよ。その牢屋の中に何回も引っ張り出された。東京に行っておる時もね。警察署に1か月に一回呼ばれたね。高田馬場の通りのね、早稲田の方から右の方にあるんだね(新宿・戸塚警察署)。」(1965.10.8)

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 次回は、「日本留学時代⑨」をお届けします。


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