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創立60周年記念企画 第1弾
日本統一運動史 3
日本留学時代②

 日本家庭連合(旧日本統一教会)創立60周年記念企画、第1弾は『日本統一運動史~文鮮明先生御夫妻と日本の統一教会および統一運動の歩み』をお届けします。
 創立40周の際に発刊されたこの書籍は、日本における文鮮明・韓鶴子総裁夫妻の貴重な歴史的足跡と、多岐にわたる統一運動の歴史をまとめた一冊です。
 今、改めて読んでおきたい、日本の統一運動の歴史を振り返る連載です。

歴史編纂委員会・編著

(光言社・刊『日本統一運動史~文鮮明先生御夫妻と日本の統一教会および統一運動の歩み』より)

第一章 メシヤとしての準備時代における真の御父様と日本
(1941年から1945年8月15日まで)

二、 日本留学時代(1941.4.1〜1943.10)

(3)下宿先
 真の御父様が、下宿されたのは、東京の淀橋区戸塚町1丁目(現在の新宿区西早稲田2丁目)の三橋(みつはし)孝蔵・イトさん宅の二階でした。

1.  下宿についての御言

①「前、先生が下宿しているところへ行った時に、そこでずーっと歩いたことがあったんだよ。一度捜してみたんだけど、そのおばさんがおるんだね。」(1965.10.8)

②「先生が日本の地で下宿を探す時、門前払いに遭ったことが多かったのです。それを思うと、『日本』という言葉だけ聞いても、頭が痛いほどです。けれどもサタンの子を、神様の理想的な子女より、もっと愛さなければなりません。それが神様の心情です。そのように考えながら、一人で何千回も忠告しながら、ここまできたのです。それは本当なのです。先生は以前、先生が下宿したいろいろな所を思い出しながら、その中の一つの下宿屋を訪ねました。そして下宿屋のおばさんに会ってきました。その時の百円というのは大きいお金です。その時代に下宿代がいくらだったか知っていますか。一カ月に11円でした。」(『真の御父母様の生涯路程』①、P.197〜198)

▲1978年9月25日、成田空港で三橋孝蔵・イト夫妻と共に

2.  三橋夫妻への御手紙

 三橋夫妻が二度、真の御父様に御手紙を書かれていましたが、真の御父様は1975年12月12日付で三橋家に返事の御手紙を出されました。

謹啓
 菊香る秋には、必ず日本を思い出しては慕う私でありましたのに、丁度三橋先生のお手紙を受けるに当たり万感胸にこみ上げる思いでございます。誠に有難うございました。

 顧みれば、夢の如き昔でありますが、お宅にお世話様になりました当時は誰にも理解できない大志をひそかに抱いて、天の御旨に対する準備にいそしむ私でありました故、勉強もろくに出来なかったのを憶えております。

 いつもご親切に、一方ならぬ便宜をみて下さり、永年忘れずにおりました。“人間万事意義あり偶然はなし”とかねがねから考えておりまして、先生との出会いと生活は何かの因縁があると思っていた者であります。

 お聞き及びの事と存じますが、世界的の青年達を集めてこの地、米国で神の御旨にいそしんでおります。統一教会は世界万民を神に結束する運動であり、誰もの教会でありますから何卒関心を持たれた上、原理なるものを読むとか聴かれますよう御願致します。

 併せて、統一青年達を愛して下さり誠に有難く存じ上げます。毎日が目まぐるしい忙しさの中にありますので二度目のお手紙を受取っておりながら、即時御返事が出来ませず申訳ございません。

 御了承の程、お願申上げつつ先は御礼までに数字を以てしたためさせて頂きました。

 奥様にもどうぞよろしく。(御写真おなつかしうございました)

1975年12月12日
文鮮明 拝

三橋 孝蔵 様 机下

3.  高田馬場についての御言

①「早稲田の高田馬場の道を、先生は一日に2回ずつ歩いたよ。よく歩いた。今も歩いてみたらなんだな、月が出ておるよ。それを思うと今晩近い所へ来たんだから昔を思い出す。一度歩きながら、神に対して祈った日本での情が日本の一角に成しえられた感謝の念を抱きたい、先生、こう思う。もしもそういうことをできずして国に帰ったならば、君たちがそういう気持ちでもって、早稲田の戸塚町を、高田馬場から歩いてほしい。わかりますか? そこにある角道、そこにある電信柱、そういう君たちの記憶に慣れている所には先生の涙があることを思っても、それは間違いないでしょう。…

 [祈り] 天の御父様、この早稲田の若者たちを記憶して下さい。高田馬場を思う時に、昔、神に向かって地の内容を思う時代が思い出されます。戸塚町のことを思う時に、忘れられない昔の数多くのことが新たに思われたことを、神に対して長い間誰知らず守り下さり、この所をまた辿ることを許して下さったことを切に感謝します。天の父よ、この日本の地を中心としてアジアに果たしたる、使命を全うし得る、若き者がそうしてこのアジアを中心として、世界を動かそうと天的使命を果たそうと、我々成約聖徒の使命が残っていることを思う時に、神我々を頼もしく思う、そういう伴侶として下さって、長い間一人一人とこんな時間を許して下さって感謝するものでございます。そうして、天に対して忠誠を尽くす新しい苛酷な気持ちを心の中に込めて、神の願う目的に対して内心誓ったその決意をいかなるものをも奪うことができない、その自己自身の確固たる勝利の基盤を作って神の永遠の勝利の……」(1965.10.8)

▲早稲田大学の通学路

▲高田馬場駅構内

4.  箱根山

 早稲田大学近くの戸山公園の中に箱根山という小さな山があり、かつては展望台から市街を見渡すことができ、真の御父様が留学しておられた時期に、おそらくここでも祈られたと言われている場所です。1965年3月に西川先生によって東京の聖地の一つが、この箱根山の中腹に定められました。

5.  嚴徳紋氏の証言

 嚴徳紋(オムドンムン)氏(1919年生)は真の御父様と同じ早稲田大学附属早稲田高等工学校に留学しました。同氏は真の御父様の下宿に近い戸塚町2丁目(現在は新宿区内)の双樹荘に住み、真の御父様の下宿先によく訪ねていきました。

▲留学時代の同窓生、嚴徳紋氏

 「先生は電気科で勉強をしておられました。無口で、あまり冗談もおっしゃらず、あまり皆とも付き合わず、目立ちませんでした。あの当時の学生は、よく酒を飲みに行ったり、喫茶店に行ったりしたのですが、先生は家で聖書の勉強をしたり、他の勉強をしたりなさっていました。

 ある時、その留学生の集会をやりました。その時先生ははじめて舞台に現れて、演説をして、歌いはじめるのです。あれほど無口で静かだった先生が、突然ライオンのように変わったのです。当時、韓国の学生が集会をしたりすると、韓国語の上手な日本の刑事が来て、その内容を全部報告するようになっていたのです。それで言いたいことをあまり言えないものだから、歌でもってそれを表わしたのです。話では駄目なので、歌に替えたのです。先生は余程言いたいことがあったのですね。かん高い声で、ものすごく大きな声で歌うものですから、びっくりしてしまいました。

 韓国の学生は玄界灘を越えて東京に来て勉学しているので、家から仕送りがあるわけです。すると、その晩は何よりも先に一応飲むわけです。私もお酒が大好きでした。しかし、先生は酒も飲みませんし、喫茶店にも行かれず、無口で静かですので、深く付き合ってみないとわからない、というのが学生時代の先生でした。しかし、先生の下宿に行ってみると、いつも聖書が開いてありました。それも英文のバイブル、日本語のバイブル、そして韓国語のバイブルと三通りあって、赤い線がいっぱい引いてあるのです。そして、座りながら何かじっと考えていました。先生が下宿なさった所は、淀橋区戸塚町一丁目で、木造の建物でした。あまり古くも新しくもなく、先生はそこにずっと下宿しておられました。二階の四畳半の部屋で、隣に二つの部屋がありました。やはり韓国の留学生で、一人は中央大学、一人は早稲田の商学部に行っていました。…

 それで、度々先生の所に遊びに行ったのですが、日曜日に行くと、必ず先生は留守でした。教会に行っておられたのです。雨が降っても、雪が降っても、晴れても、曇っていても、必ず日曜日は教会に行っておられたのです。

 後で私はわかったことですが、教会に行くと韓国のメンバーがたくさんいて、先生はそのリーダーだったのです。だからといって、先生は私に『教会に行こう』と言ったことは一度もありませんでした。御自分があれほど教会に通っていても、私たちを誘ったり、伝道したりしたことは一度もありません。表面的にみますと、先生は全然クリスチャンという感じがしないのです。平凡な静かな青年というふうでした。ただ、非常に情け深い人でした。貧乏な人をみると、自分のお金を全部はたいてあげるのです。夏休みに帰省して、家で作ってもらった背広を友達にあげたりするのです。そして、一人で感慨に耽ったり、思索しているような場面もありました。」(『祝福』第32号)

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 次回は、「日本留学時代③」をお届けします。


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