コラム・週刊Blessed Life 71
「神の愛を知らない人間たちの姿」という大問題

新海 一朗(コラムニスト)

 現在の人類の姿は、各国の利害の衝突をはじめ、さまざまな企業の中での桎梏(しっこく)、家庭の中の夫婦、親子、兄弟の不和、社会的な人間関係のストレスなど、どの部分をどう取り出してみても、相互理解と思いやりに欠け、平和と協調を知らず、ねたみと憎しみを心に抱いて生きているような社会に見えます。

 日本社会が表面的にはいくら平和に見えても、実際には、川崎の児童殺傷事件やエリート官僚の息子殺しなどに見られるように、心の中には途轍もない怒りや恨みが鬱積(うっせき)しており、びっくりするような犯罪を引き起こす事態となります。

 聖書を読むと、罪深い人間社会を見つめる神様の気持ちがどのようなものであるかが記されています。
 「背信の子どもたちよ、帰れ。わたしはあなたがたの背信をいやす」(エレミヤ書 第3章22節)とあり、どんなに神様を忘れ、神様に逆らい、憎悪の中に生きる背信者たちであっても「いやす」というのが神様のお気持であるというのです。「わたしに帰れ」という神様の叫びが深刻な呼び掛けとして響いてきます。

 厳密に言えば、完全に正しく生きることができない人類一人一人であり、多かれ少なかれ罪の中に生きる人類全体の姿であるにもかかわらず、それを見つめておられる神様がいらっしゃると考えたとき、その神様がおっしゃる言葉は一体どんなものであるかを聖書は述べています。

 「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた」(エレミヤ書 第31章3節)というのが神様の人間一人一人に対する言葉です。
 そのような神様の涙の出るような人間に対する愛の事実を人間の方が知らないだけです。

 この世界に深刻な問題があるとすれば、「神様の愛を知らない人間たちの姿」というのが、最も大きな問題です。無神論など、もっての外であることはもちろん、神様を受け入れている人々であっても、神様の愛をいかに実感して生きるかが重要な問題です。

 罪の中にある人類を神様は許し癒やすというのが聖書の言葉であるとすれば、答えは一つ、全人類が神様の許へ帰り、神様に許していただき、神様に癒やしてもらう以外にありません。
 人間的な思いを捨てて、素直に神様の愛の懐に抱かれるということです。人間の愛を人間的に求めても、失望に終わるかもしれません。神様が私を包んでくださるその愛を感謝し、神様の愛で癒やされる時、本当の幸福への道が開かれます。

 結局、現在、人類が陥っている罪の中心的なものは、フリーセックス、同性愛など、男女の本来的な愛である「一夫一婦の貞節の愛」を、社会全体が「遊び感覚」にしてしまっていること、これが神様の最も大きな悲しみになっていることを知らなければなりません。