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幸せを引き寄せる 9
親子円満

 アプリで読む光言社書籍シリーズ第7弾、『幸せを引き寄せる〜「愛天愛人愛国」家庭生活講座』を毎週木曜日配信(予定)でお届けしています。なお、この記事に記載されている「自叙伝『平和を愛する世界人として』」のページ数は創芸社出版のものです。

浅川 勇男・著

(光言社・刊『幸せを引き寄せる〜「愛天愛人愛国」家庭生活講座』より)

第二章 人を愛する生活

親子円満

神様がたった一度だけ
この腕を動かして下さるとしたら
母の肩をたたかせてもらおう
風に揺れる
ペンペン草の実を見ていたら
そんな日が
本当に来るような気がした
 星野富弘さんの詩

 「私はけがをして失ったものもずい分あるけど、与えられたものは、それ以上にあるような気がした。私が入院する前の母は、昼は四つんばいになって土をかきまわし、夜はうす暗い電灯の下で、金がないと泣きごとを言いながら内職をしていた、私にとってあまり魅力のない母だった。……もし私がけがをしなければ、この愛に満ちた母にきづくことなく、私は母をうす汚れたひとりの百姓の女としてしか見られないままに、一生を高慢な気持ちで過ごしてしまう、不幸な人間になってしまったかもしれなかった」(星野富弘著『愛、深き淵』、183ページ)

 星野富弘さんは群馬県出身で、器械体操の中学教師でした。しかし、二十四歳のとき、クラブ活動の指導中に頭から転倒し、頚髄(けいずい)を損傷してしまいました。手足はもちろんのこと、首や顔も動かせなくなり、ベッドで天井を見上げるだけの生活をするようになってしまったのです。あまりのつらさに、眠っている間に心臓が止まって死ねないか、と願ったこともあったそうです。水も食事もとれず、自分では何もできません。一切の世話を母親がしたのです。

 そんな母に罵声を浴びせたこともあったそうです。ある時、母の手元がふるえてスプーンの汁を顔にこぼしてしまったとき、「チキショウ。もう食わねえ。くそばばあ、おれなんかどうなってもいいんだ。産んでくれなけりゃよかったんだ」と言ってしまったのです。

 やがて、星野さんは、神様とイエス様を信じるようになり、花の美しさに目覚めて、ひらめいた詩と花を詩画として書くようになりました。首と顔が動かないので、筆を口にくわえて描くのです。水彩画の絵の具の色あいを全て母親が出しました。

 人生の全てを失ったかに見えた星野さんは、花の美しさと、それ以上に輝いている母の愛に気がついたのです。星野さんの詩画は、群馬県の山奥、富弘美術館に展示されています。一週間で、約一万人の人が鑑賞に来るそうです。母親と子供の愛の絆に感動するのです。

 文鮮明先生は、子供がどんなに親の思いどおりにならなくても、子供に対する親の愛は変わってはいけないと言われます。

 「父母は、自分を犠牲にしても、子女が立派に育つことを願います。父母は、変わらない愛の主人です。父母という存在は、子女が千態、万態変わってどのようなことをやっても、子女のためという心は変わりません」(『愛天愛人愛国』、73ページ)

 そして、真の親の愛は、子供に尽くしながら不足を感じる心だと言われます。

 「父母の心は、与えても足りないと感じ、愛しても十分愛しきれないところがあるのではないかと、もっと愛したい心、与えてからも、もっと与えたいと思う心、このようなものがあるので、永遠の愛に通じるのです」(『愛天愛人愛国』、74ページ)

 例えば、子供に服を買ってあげるとき、「こんないい服を買ってあげたのだから、感謝しなさい」と恩着せがましく思うのではなく、「もっと良い服を着せられなくてすまない」と思うのです。与えながら満足するのではなく、不足さを感じるのが真の親の愛なのです。

 では、子供は父母に対してどう向き合うべきなのでしょうか?

 まず、父母の愛に感謝することです。子供は生まれながらにして、父母に愛の負債を負っているのです。父親は子供を養うために汗し涙して働きました。母親は、陣痛の痛みを耐え、子供が夜泣きをすれば起き、大小便の世話をしました、時には自分の食事を減らして、与えました。その父母の恩に報いて孝行することが親への愛だと、文鮮明先生は言われます。

 「父母の愛に対する借りを、自分自身が返さなければなりません。父母が年を取ったときに、自分が幼い時に、下の世話をしてくれた父母を思い出し、父母に仕えてこそ孝子になれます」(『愛天愛人愛国』、71ページ)

 とはいうものの、どうしても親に感謝できない人もいます。

 幼い頃、親に捨てられて親を怨んでいる人もいるでしょう。でも、怨讐を愛して、何度裏切られても、愛し続けた文鮮明先生の変わらない愛に触れると、怨みは解けていくのです。自叙伝で「言葉には魂があります」(自叙伝、289ページ)と言われています。文鮮明先生の魂に触れるのがみ言の訓読であり、魂を紙に書き写すのが自叙伝書写なのです。

 ある婦人は、自分を捨てた親を怨んでいましたが、訓読書写を続けるうちに怨みが解けたのです。

 「文鮮明先生の自叙伝の言葉である、『苦しんでいる人類を救い、神様を喜ばしてあげなさい』というみ言を訓読書写する中で、母方の先祖の名前も一緒に書き、祖母と母が苦しんできた人生が解放されるように願って書きました。すると、訓読書写しながら涙があふれてきました。そして、私を捨てた母に対する『愛されなかった恨み』が溶けていくのを感じました。『私は愛されていたんだ』と初めて思えるようになり、感謝の思いで解放されました……」(ある主婦の証)(続く)

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 次回は、「嫁姑円満」をお届けします。