2019.04.08 17:00
コラム・週刊Blessed Life 62
中国が恐れる「逢九必乱」
新海 一朗(コラムニスト)
中国が恐れる「逢九必乱(ほうきゅうひつらん)」というものがあります。これは、西暦年の最後の数が「九(9)」になる年には、必ず乱に出くわすという意味です。
振り返ってみましょう。
100年前の1919年に何があったか。この年、「五・四運動」がありました。
五・四運動というのは、1919年パリ講和会議のベルサイユ条約の結果に不満を抱いた群衆が、抗日を掲げる大衆運動を全国展開したという事件です。
第一次世界大戦の敗戦国となったドイツから日本は山東省の権益を奪いました。この日本の主張がパリ講和会議において国際的に承認されたのです。これに怒り狂った中国の人々が起こした全国的な抗議デモが五・四運動でした。
1949年には、共産党が蒋介石率いる国民党との内戦に勝利し、毛沢東の「中華人民共和国誕生」が成立しました。
1959年3月には、チベットにおいて反中国、反共産主義の民衆暴動が勃発しました。
人民解放軍はダライ・ラマ14世の誘拐、拉致を試みましたが、危機一髪のところでダライ・ラマ14世は避難し、亡命するに至りました。この時、86,000人のチベット人が中国軍によって殺されました。
これが1959年の「チベット蜂起(チベット騒乱)」です。
次の、1969年には何があったか。「中ソ国境紛争」です。
中国とソ連の国境を流れるウスリー河に浮かぶ小島のダマンスキー島(珍宝島)の領有権を巡る軍事衝突があり、中国とソ連が核を使う羽目になったら恐ろしい事態になったであろうといわれる事件です。
そして、1979年には、「中越戦争」が起こりました。
これは、中国が支援していたカンボジアのポル・ポト政権を崩壊させたベトナムへの懲らしめとして、中国は人民解放軍10万人をベトナムへ派遣しました。しかし、装備、練度共に優越するベトナム軍の前に解放軍は大敗、1カ月足らずで撤退を強いられたという屈辱の事件です。
1989年には、有名な「天安門事件」が起きます。
この年の6月4日に起きた天安門広場での民主化運動が人民解放軍の装甲車で武力弾圧を受け、多数の死者を出した事件ですが、319人の死者という中国政府の発表を信じる者は誰もいません。英米の公文書には、死者1万人の記述が見られます。現代中国史の闇が天安門事件であることは疑いようもないことです。
1999年には、法輪功のメンバーたちが中南海(北京市の中心部西城区、かつての紫禁城〈現故宮〉の西側に隣接する地区)を取り囲むという事件が起きました。その後の法輪功への弾圧の取り締まりが激烈なものになったことは周知のとおりです。
2009年には、記憶に新しい新疆(しんきょう)ウイグル地区のウルムチでの騒乱が起きました。
こうして見てくると、「さて、2019年は?」という思いにさせられるのは誰でしょうか。
世界の誰よりも、中国共産党のトップ指導者たちの脳裏にこそ浮かぶ思いではないでしょうか。
今年は、「逢九必乱」におびえる中国なのです。