夫婦愛を育む 48
再び「私は正しい。そこから争いは始まる」

ナビゲーター:橘 幸世

 「私は正しい。そこから争いは始まる」というタイトルの本欄初回原稿を書いて、既に1年以上がたちました。
 
 地元紙で見つけた「私は正しい」という見出しのコラム。
 筆者(女性)が車を走らせていると、道路沿いの掲示板に「私は正しい。そこから争いは始まる」と書かれていたのを見て、それまでの自分を振り返り、ぞっとした。「私が正しい」と思うことは、同時に相手が間違っていると(暗に)断定することで、それが争いの元になると気付いた、とありました。

 彼女のようにぞっとするほどにその言葉の意味を受け止められれば、姿勢の転換ができますが、なるほどなとは思っても、「私は正しい」を手放すことは簡単ではないかもしれません。

 統一原理を学んだ私たちは、明確な価値観、判断基準を持っています。
 相手が統一原理とは異なる思想や価値観を持っていれば、それは間違っている、と正したくもなるでしょう。ましてや相手が身近な人であればあるほど、その人の幸せ、さらには共なる幸せを願うが故に“正しくあること”を強く求めがちです。
 でも、結局は自分が信じる“最善”に沿って相手をコントロールしようとすることにつながるので、否定された側は反発しますし、こちらのストレスも増します。

 そんな葛藤を抱えている婦人たちと話している時、ふとパウロのことを思い出しました。
 ダマスコに向かう途中でイエス様と霊的に出会うまで、彼はクリスチャンを迫害する先頭に立っていました。そんなパウロを神様は召命されたのです。

 神様はパウロの何を見て、摂理を妨げんとする彼を愛し、召されたのでしょう?
 神様が愛(め)でる善い資質を相手の中に見つけて、それをもって肯定し愛していけば、やがて価値観においても歩み寄りが見られるのではないでしょうか?

 心理学者チャック・スペザーノ博士は、著書『傷つくならば、それは「愛」ではない』の中で、「自分は正しい」(と主張すること)と「自分は幸せだ」(主張した近しい相手との関係性において)は両立しない、とまで書いています。

 これはなかなか難しいテーマで、自分の中で咀嚼(そしゃく)するのに時間がかかるかもしれませんが、まずは意識して、「自分が正しい」ということを手放してみましょう。これまでとは違う景色が見えるかもしれません。