2018.12.16 22:00
幸福への「処方箋」20
第三章 幸福実現の方策――「蕩減復帰原理」
メシヤのための基台
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野村 健二(統一思想研究院元院長)・著
メシヤのための基台
人間の始祖、アダムとエバの原罪を受け継いだすべての堕落人間の救いは、最終的には、原罪とは無関係のものとなるように神の手で長い期間をかけて摂理されたメシヤ(救世主)に接(つ)ぎ木され、原罪を消滅させていただくことによって初めて実現されます。ところで、メシヤを迎えるためには、「メシヤのための基台」を造成することが必要だと統一原理は説きます。この「メシヤのための基台」は「信仰基台」と「実体基台」の二つから成り立つものです(講論277~278頁)。
一、信仰基台
アダムは神から「善悪を知る木の実」を取って食べてはならないという命令を、個性完成したと神が認めるまで(創造原理からいうと、蘇生期、長成期、完成期各七年で合計二一年となります)守り抜かなければなりませんでした。その命令を、エバの誘惑に負けて守らなかったために堕落してしまったので、「そこから離れるようになった経路とは反対の経路をたどる」ものとして、アダムの代理として立てられたアベルに、神のみ意(こころ)にかなうように真心をこめて「供え物」をすることが命じられました。これが「信仰基台」に当たります。
この信仰基台を立てるためには、“中心人物”、“条件物”、“数理的な蕩減期間”という、三つの要素が備わらなければなりません。
アダム家庭でこの役に当たる“中心人物”は、アダムが罪を犯したのですから、この点から考えれば、アダムとなりそうですが、そうではありませんでした。
「(神が立てられた)創造原理によれば、人間は本来、一人の主人にのみ対応するように創造された。それゆえ、二人の主人に対応する立場に立っている存在を相手にして、創造原理的な摂理を行うことはできない。もし神が、アダムとその供え物に対応しようとすれば、サタンもまた、アダムと血縁関係があるのを条件として、アダムと対応しようとするのはいうまでもない」(講論290〜291頁)。そこで神はアダム自身ではなく、その子であるカインとアベルのいずれかを中心人物とすることにされました。
それでは一体どちらを神と対応できる善の表示体、どちらをサタンと対応する悪の表示体と見るべきでしょうか。「カインとアベルは、共にエバの堕落の実であった」。ところで、エバの最初の堕落行為は、「神と同じように目が開けるようになりたいと願う」「時ならぬ時に時のことを願う過分な欲望が動機となり」、「非原理的な相対である天使長と関係を結んだことから生じたものであるのに対して、二番目の堕落行為は、最初の行為が不倫なものであったことを悟って、再び神の側に戻りたいと願う心情が動機となって、ただ、まだ神が許諾(きょだく)し得ない、時ならぬ時に、原理的な相対であるアダムと関係を結んだことから起こった」。
そのため、「カインは愛の初めの実であるので、その最初のつまずきであった天使長との愛による堕落行為を表徴する悪の表示体として、サタンと相対する立場に立て」、「アベルは愛の二番目の実であるがゆえに、その二番目の過ちであったアダムとの愛による堕落行為を表徴する善の表示体として、神と対応することができる立場に立てられた」(講論291〜292頁)。
また、「元来、神は長子を立てて、長子にその嗣業(しぎょう)を継承させようとなさった原理的な基準があるので、サタンも、二番目のものよりも、最初のものに対する未練が一層大きかった」。「したがって、神はサタンが未練をもって対応するカインよりも、アベルと対応することを選び給うた」(講論292頁)。
こういう神の対応から、たとえ最悪の敵対者といえども一応は相手のしたいようにさせておいて、その後うむをいわせないようにするという教育的対応をなさるということが分かります。
さて、第二の要素である“供え物(条件物)”については、『聖書』は、「日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた」(創世記四・3〜4)と記しています。それに対して、「カインはサタンが取ることのできる相対的な立場に立てられていたので、神がその供え物を取ることができるような何らかの条件をカイン自身が立てない限りは、神はそれを取ることができなかった」(講論293頁)。こうして、「主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた」(創世記四・4〜5)と記しています。
第三の要素――“数理的な蕩減期間”については、『聖書』にも『原理講論』にも明確な記述がありませんが後に出てくるアブラハムの象徴献祭が一日という短期のものであったことから考えて、これも同じぐらいのものだったと思われます。
二、実体基台――堕落性を脱(ぬ)ぐための蕩減条件
堕落人間が創造目的を完成するためには、神のみ言(ことば)を信じ通す、ということに当たる誠意を込めての「供え物」などの信仰基台とともに、アダムとエバの堕落に端を発する原罪の遺伝から生じた堕落性の発揮を抑えるという、「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てる必要があります。これは〝信仰〟に対して人間の〝実体〟に関する問題なので、「実体基台」といいます。
「アダムの家庭において『実体基台』がつくられるためには、カインが『堕落性を脱ぐための蕩減条件』を立てることにより、神がその献祭を喜んで受け得るような条件を立てるべきだった」(講論294頁)とあります。
ここで、「堕落性を脱ぐための蕩減条件」とは、第二章で述べた「堕落性本性」とは反対の行動をすることだといえます。
①神と同じ立場に立てない堕落性――これは、「天使長が、神の愛を(自分)より多く受けていたアダムを愛することができなかったことによって堕落した」ことから生じた。「それゆえに、この堕落性を脱ぐためには、天使長の立場にいるカインがアダムの立場にいるアベルを愛して、神の立場にあるのと同じ立場をとるべきであった」(講論294頁)。
②自己の位置を離れる堕落性――これは、「天使長が、神にもっと近かったアダムを仲保に立て、彼を通じて神の愛を受けようとせず、かえってアダムの位置を奪おうとして堕落」したことから生じた。
「ゆえに、この堕落性を脱ぐためには、天使長の立場にいるカインがアダムの立場にいるアベルを仲保として、彼を通じて神の愛を受ける立場をとることにより、自分の位置を守るべきであった」(講論294〜5頁)。
③主管性を転倒する堕落性――これは、「天使長は自分を主管すべくつくられた人間、すなわちエバとアダムを逆に主管して堕落した」ことから生じた。
「したがって、人間がこの堕落性を脱ぐためには、天使長の立場にいるカインがアダムの立場にいるアベルに従順に屈伏して、彼の主管を受ける立場に立つことによって、主管性を正しく立てるべきであった」(講論295頁)。
④罪を繁殖する堕落性――これは、「善悪の果(み)を取って食べるなという善のみ言を、神はアダムに伝え、アダムはこれをエバに伝え、エバは天使長に伝え」るというようにして善を繁殖すべきだったのを、「これとは反対に、天使長は取って食べてもよいという不義の言葉をエバに伝え、エバはそれをアダムに伝え」たことから生じた。
「ゆえに、この堕落性を脱ぐためには、天使長の立場にいるカインが、自分よりも神の前に近く立っているアベルの相対となる立場をとり、アベルから善のみ言を伝え受けて、善を繁殖する立場に立つべきであった」(講論295頁)。
以上を簡潔にまとめていえば、天使長の立場にいるカインは、アダムの立場にいるアベルを愛し、仲保として、彼に屈伏し、その善のみ言を繁殖させるべきだったということになります。このようにすることがとりも直さず「堕落性を脱ぐための蕩減条件」です。それによって神の認める「実体基台」が立ち、先に立てた「信仰基台」と合わせて「メシヤのための基台」が完全に造成されます。カインがもしそうしていれば、神によってアダムの孫の代にでもメシヤが派遣されて、アダム一族全体の救いが完成されていたに相違ありません。
なお、ここでは実体基台を立てるべき者としてカインの側のあり方ばかりを問題としてきましたが、アベルの側にもカインが従ってきやすいように謙虚にふるまう必要があったといえます。イエスもこう言っておられます。
「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たち は、その民の上に権力をふるっている。あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない」(マタイ二〇・25〜27)。(続く)
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次回は、第二部 第四章の「利己主義」をお届けします。