コラム・週刊Blessed Life 39
真の愛による自由

新海 一朗(コラムニスト)

 「自由」という言葉は、英語では、「freedom」と「liberty」があり、どちらも同じく、日本語で「自由」と訳されるのですが、よく調べてみると、意味合いの違いがあるようです。

 freedomの方には、「愛、温和、優しさ」などの精神的な意味が含蓄され、宗教的、倫理的意味が隠されています。libertyの方は、「社会的制約や政治的制約を受けない」という意味が強く、そこから「解放」というもう一つの意味にまで発展するようです。

 「中国には自由がない」と言った場合、それは人民が社会的制約もしくは政治的制約を受けているという意味で使われるわけですから、libertyがないことになります。liberty(自由)がないならば、liberty(解放)を求めなければならないということです。

 人民を監視する隠しカメラが1億7,000万台設置されている状態(8人を監視するために一台のカメラが設置されているという割合)ですから、確かに社会的、政治的制約の真っただ中に人々は置かれています。中国の独裁体制は末期的状況に入ったといっても過言ではありません。

 精神的な自由がほしいならば、freedomのほうが適切であり、言論の自由(freedom of speech)、思想の自由(freedom of thought)、信仰の自由(freedom of religion)などと表現されます。

 とにかく、精神的な意味であれ、政治的な意味であれ、自由で幸せに暮らしたいと思うならば、「真の愛による自由」という概念を大切にすることをお勧めします。

 真の愛は、精神的にも社会的にも人々を自由にする究極の力を持っていると言っていいでしょう。
 真の愛の中に真の自由があります。人々が真の愛によって生きるならば、freedomを得ることができますし、libertyも獲得できます。現在の社会が持つ息苦しさは、真の愛によって生きることのできない人々の精神的相克、社会的葛藤から来るものであり、それが、社会、国家、世界のレベルで見られるということです。

 「真の愛による自由」を享受する人生に挑戦してみましょう!