https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=22576

ダンベリー精神 7

 このシリーズでは、真のお父様のダンベリー連邦刑務所(米国コネチカット州)収監(1984年7月20日)から40年を迎えて、「ダンベリー精神」とは何だったのかを振り返ります。(一部、編集部が加筆・修正)

 今回は、真のお父様のダンベリー収監後、留守を守る真のお母様のメッセージと、近く侍(はべ)った側近のかたがたの証しを紹介しながら、お父様の代身として力強く立たれたお母様のお姿を紹介します。

精誠には神が感動し、サタンは降参する

 真のお母様の自叙伝『人類の涙をぬぐう平和の母』にこのような一節があります。

 「私が何よりもつらかったのは、当時、文(ムン)総裁が既に60歳を超えており、アメリカという異国の地で刑務所生活をするのは、容易でなかったということです。

 しかも、有色人種である上に新興宗教の指導者だという理由で迫害が加えられていたため、私の心はより一層、痛みました。

 また、末の子供である情進(チョンヂン)がまだ2歳を過ぎたばかりだったので、私は心身共に、非常につらい思いをしました。

 そのような中で、文総裁のいない空白を、私が代わりに埋めなければならなかったのです。

 翌日の朝、文総裁は私に電話をかけてくれました。

 『神様の召命に従い、キリスト教の信仰の炎を燃え上がらせよ。この言葉を信徒に伝えてほしい』

 私はそのメッセージを信徒に伝え、私たちが今、何をすべきかについても話しました」
172ページ)

 以下は、この時(1984年7月22日)、お母様がイーストガーデンに集った教会員たちに向かって語られたメッセージ(要旨)です。

 「きょう(お父様が)私に電話を下さり、皆さんに願われたことは他でもなく、天に代わって責任を担い、召命を受けた者として、キリスト教に向けてのろしを上げなさいということです。

 この時代に生きる皆さんにとって、真の父母と親子の立場であることから見れば、今が最後のチャンスです。
 皆さんの行動によって、お父様の自由が保障されるのです。皆さんの精誠に天が感動し、サタンも降参して、役事が起こるでしょう」

精誠の極みを尽くされた真のお母様

 それまでは、教会員たちの前でみ言を語られることは滅多になかったお母様でしたが、お父様の収監を機に、お父様の代身として雄々しく立たれました。
 そのお姿を、側近のかたがたが証言しています。

◆朴普熙氏(36家庭)
万古の歴史に稀に見る烈女
 ダンベリー入監の期間中、(文鮮明〈ムン・ソンミョン〉)先生に力と勇気と慰めを差し上げた方は、改めて言うまでもなく令夫人の韓鶴子(ハン・ハクチャ)女史であった。

 令夫人はこの間、万古(ばんこ)の歴史にも稀(まれ)に見る烈女(れつじょ)の伝統を立てられた。
 入監の翌日から一日も欠かすことなく、雨が降っても雪が降っても面会室に通われた。

 令夫人が特に心配されたのは、先生の周辺警護と食事の内容であった。……

 令夫人は食べ物を持っていくことができないのを非常に残念がられた。……

 しかし、これらのすべてのことより大切で重要だったのは、令夫人のこの上ない精誠であろう。
 寒かろうが暑かろうが、あるいは夏だろうと冬だろうと、たたひたすらに刑務所に駆け付けられた。

 朝、面会に来られる頃になれば、先生は外に出て自動車の到着を待たれる。夕方帰られるときには、また外に出て令夫人の車が見えなくなるまで見送られる。
 文夫人が万古の烈女ならば、先生もまた万古の“烈男”であった。

 先生は朝5時になって祈祷を終えると、すぐに公衆電話の所に行って「オンマー(お母さん)!」と電話をされる。これが毎朝の日課である。
 この御夫妻の姿は、一時の熱烈な恋愛に浸っている若い男女の間にしか見られない甘いロマンスを彷彿(ほうふつ)とさせる。

 先生御夫妻は、この真の夫婦愛の精神を一時だけではなく、一生にわたって生きられるのだ。

(朴普熙著『証言(下巻)』154155ページ)

◆史吉子女史(36家庭)
お父様ご不在の穴を埋めてくださった
 真のお父様がダンベリーに行かれるとき、真のお母様は、とても泣かれました。……

 ところが、真のお母様は、真のお父様をダンベリーに送られて帰って来られると、“いつ泣いておられたのか?”と思われるほど、きぜんとした態度で、沈着冷静に、このような内容を語られました。

 「このようなときは、最善を尽くして、真のお父様がいらっしゃらない分を、私たちが埋めていかなければなりません。気を引き締め、み旨の前に一糸乱れずに、しっかりと歩んでいかなければならないのです」

 感動的に、情熱的に、理論的にお話をされたのです。
 私たちは、真のお母様が帰って来られたときに、再び泣いたのですが、真のお母様が、そのように落ち着いて冷静沈着にみ言を語られるので、いつの間にか涙が乾き、真のお母様を拝見しながら、新しい感動と決意がわいてくるのを感じました。

 そして、“真のお父様がいらっしゃらなくても、真のお母様は、空いた所を埋めてくださるおかたであられる”という信頼感と尊敬心が、わき上がってきたのです。

(『ファミリー』20034月号38ページ)

◆鄭元周補佐官(当時)
毎日ダンベリーに“通勤”
 お父様をダンベリーにお見送りし、お一人で帰ってこられてから、お母様は食口を集めて語られました。

 「お父様は旅行に行かれるかのように、“行ってくるね”と言いながら笑って出発されました。本当にりっぱであられました」と。

 それからお母様は毎日、2歳の情進様を連れてダンベリーに“通勤”されたのです。

 19849月、ワシントンで第13回「科学の統一に関する国際会議」が開催され、お母様は開会式で挨拶をなさいました。
 紺色のジャケットを召され、目頭を押さえながらも、英語でりっぱに語られたのです。

 開会式を終えたお母様は、ダンベリーのお父様に報告に行かれました。そして再び閉会式に来られて、お父様のごようすとみ言をお伝えになりました。
 学者たちを前にしても、お父様の代身として終始堂々としておられました。

 当時、お母様は子女様がたと共に、聖地での徹夜祈祷をとても熱心にしていらっしゃいました。
 孝進(ヒョウヂン)様も聖燭(せいしょく)祈祷を一生懸命なさいました。お母様は正に、精誠の極みであられました。

 そのときから始まったイーストガーデンの聖燭祈祷は、スタッフによって一日も欠かさず、今に至るまで続けられています。

(『トゥデイズ・ワールド ジャパン』201312月号45ページ)