2024.06.28 17:00
【B-Life『世界家庭』コーナー】
砂漠と炎熱のイスラムの国から
北アフリカ・スーダン日誌(終)
祝福は天からの愛の賜物
2015年から2016年まで『トゥデイズ・ワールド ジャパン』と『世界家庭』に掲載された懐かしのエッセー「砂漠と炎熱のイスラムの国から 北アフリカ・スーダン日誌」を、特別にBlessed Lifeでお届けします!
筆者の山田三穂さんは、6000双のスーダン・日本家庭です。
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私は、雪深い福島県会津若松市の小さな田舎町で育ちました。
生まれながらにして心臓病だった私は、医者から「大人になったら手術が必要です」と言われて育ち、スポーツは厳禁。そのため、小学校から高校まで体育の時間はいつも見学でした。
1976年夏、大学2年(20歳)のときに心臓病(肺動脈狭窄症)の手術を受けました。ところが、手術が終わるや否や貧血を起こし、そのショックで急性腎不全を発症し、意識不明となってしまったのです。急遽、応急処置として腹膜灌流の手術をして人工透析が可能な状態になりました。
幸い、1週間後に意識が戻ったのですが、腎臓は動きませんでした。それでも、人工透析を2か月受けるうちに腎臓が動き始めたのです。
そして大学4年生(24歳)のとき、教会に導かれ、悲観的な思いを抱き続けた霊界から解放されたのです。
1982年10月、信仰歴はまだ2年半でしたが、真のお父様の願いに応えたいという思いから、6000家庭のマッチングに臨みました。最終日(10月12日)になっても相対が決まらず、未明には聖酒式が始まるという直前に、「祝福が決まらなかった日本の姉妹は全員、蚕室(チャㇺシㇽ)体育館に来なさい」という知らせが入り、急いで向かったのです。
会場では韓国とアフリカの兄弟が待っていました。真のお父様は韓国の兄弟と日本の姉妹をマッチングされてから、残った日本の姉妹に「この中で、アフリカの兄弟と祝福を受けたいと思う者は手を挙げなさい」と語られました。すると全員が手を挙げました。私も夢中で手を挙げました。そして、スーダン人の夫と結んでくださったのです。
私がアフリカの人とマッチングを受けたと知った巡回師は、驚いて駆け寄ってきました。そして真のお父様に「この姉妹は心臓が弱いのですが」と申し上げたのです。するとお父様は私をごらんになり、「問題ないよ」とおっしゃいました。
不思議なものです。スーダンにお嫁に来て28年たちましたが、心臓や腎臓など全く異常なく生活できているのです。祝福によって、何らかの蕩減が晴らされたのではないでしょうか。
夫は、熱心なイスラム教徒でした。1974年春、大学4年のときに布教のため、イギリスに渡りました。そのとき、IOWC(国際統一十字軍)のフィリピン人の姉妹に声をかけられ、伝道するつもりでついて行った先が統一教会だったそうです。
当時のことを夫が、「修練会に参加してみたのだが、私はかなりの問題児だった。なのに入教したのは、兄弟がとてもいい人たちだったし、『原理』が明確で論理的で、イスラム教ではよく分からなかったことも全て言い尽くされているので屈伏した。特に、創造原理の第6節『人間を中心とする無形実体世界と有形実体世界』に感動した」と話してくれました。
夫はイギリスの教会で1年半歩んだ後、大学を卒業するために、1976年に帰国しました。すでに、スーダンでは1975年からO先生(1800家庭)が宣教活動をしていたので、夫はO先生のもとで歩むこととなりました。
1982年10月、スーダンの祝福候補者は夫一人でした。夫は韓国までの渡航費がなく、世界宣教本部からはとりあえずフランスに渡るように言われました。そして、フランス滞在中に日本からの援助を受けて、韓国に向かうことができたのです。
こうして私たち夫婦は1986年10月、まずケニアで家庭を出発し、翌年11月、スーダンでの生活をスタートさせました。
見渡せば一面が砂漠の世界、炎熱によって体が燃えてしまうのではないかと思うほどのスーダン。また、日本に電話が通じたら運が良く、プロパンガスが手に入ったら宝くじに当たったような世界です。そのような中で、天は私たち夫婦に5人の息子を授けてくださいました。
今でも思い出すのが、5人目の子の帝王切開の予定日(1995年9月10日)の前日のことでした。夫と病院に行くはずなのに、いくら待っても夫が戻ってこないのです。
すると、スーダン人と祝福を受けた日本人の婦人(2075家庭)が家にやってきて「教会に秘密警察が来て全てを没収されたわ。ムーミン教会長と現地のメンバーが検挙された。あなたの夫も入っている」と言ったのです。
夜になって警察官が夫を連れて戻ってくると、夫は自分の車に私を乗せて警察官同伴で病院に連れて行ってくれました。そして予定どおり出産することができたのです。
夫たちは検挙されたものの、投獄されることはなく、尋問だけでした。しかし尋問は日帰りで1か月に及び、「宗教活動はしない」という約束を交わして解放されたのです。
2015年1月28日、三男のヤシンが病気のため聖和しました(享年23)。一時は回復の兆しが見えましたが、新年を迎えて流星のごとくに逝ってしまいました。
優しい子でしたから、たくさんの友人がお見舞いに来てくれました。この国では亡くなったその日のうちに男の親族のみで埋葬し、3日間にわたる葬式をするのです。その後、教会長の自宅でスーダンで最初の聖和式を執り行っていただきました。
6000家庭の祝福式(1982年10月14日)の後、真のお父様が国際祝福を受けた日本の姉妹たちにみ言を下さいました。
「今回、国際祝福を受けた日本の姉妹たちはその国の土の中に埋まっている骨のその中にある骨髄になるんだね。また日本の姉妹が、その国のために生きたならば、将来日本が困ったとき、その国は日本を助けるようになる。だからこの祝福は日本のためにしているようなものだね」
私は、まっすぐな信仰の道を歩んで来たわけではありません。時にはイスラムの霊界に押し潰されそうになったり、紆余曲折しながら、たくさんの方に助けられたりしましたが、何かあるたびにこのみ言が胸によみがえります。
スーダンに〝ヌバ〟という古い部族がいます。恵まれた体格のヌバ族の男性は、古代エジプト王国の傭兵として活躍しました。そのヌバ族に最も大切なこととして伝えられているのが格闘技のスーダンレスリングです。正に、世界最古のレスリングです。
今、日本大使館が後援し、そのヌバ族の中で優秀なレスラーに、現代のレスリングを、日本で教えています。これは、2020年の東京オリンピックに向けてスーダンから参加させようというプロジェクトです。
もし、東京オリンピックでスーダンのレスラーを目にしたなら、世界最古のレスラーの後裔に声援を送ってくださることを願いながら、このエッセーを終わります。
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(この記事は、『世界家庭』2016年9月号に掲載されたものです)