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制作の舞台裏から 66
群馬・沼田のキリストを探して

 ある先輩家庭にインタビュー撮影した時、偶然に自分のルーツを発見した。

 その先輩は、群馬県にある尾瀬霊園近くで生まれ育ったという。そして、その周辺からは多くの食口(シック/家庭連合の教会員)が復帰されていると話してくれた。

 また、その地のお墓には十字架が彫られたものがあり、隠れキリシタンの里であることを教えてくれた。
 「群馬の山奥になぜキリシタンが?」と思ったが、上州(現在の群馬)を治めていた真田家の家臣にキリシタンが多かったらしい。
 豊臣と徳川の戦いでも、キリスト教に寛容な豊臣方に多くのキリシタン大名がいたが、真田家(昌幸)も豊臣方だった。

 筆者は祝福二世だが、母親から祖父が尾瀬霊園近くの出身だと教えられていた。
 改めて確認すると、祖父は片品村に隣接する利根村の出身だった。
 近い出自の先輩に出会えたことがうれしく、撮影後に群馬のキリシタンの歴史を調べてみた。

 大ざっぱに言うと、あの辺りは利根沼田と呼ばれ、江戸時代初期には江戸に次ぐキリシタン人口だった。
 ちょうど栃木の足尾銅山に続く街道があり、南蛮の採掘技術と共にキリスト教が広まったようだ。

 中でも、川場村の「東庵」という伝道師が布教したことで大きく広まったとされていて、川場村には聖母マリアがイエス・キリストを抱くように見える「子育て観音像」があり、人々の信仰のよりどころになっていた。

 前述のとおり、祖父は利根村出身だが、戸籍を調べると、曽祖母の旧姓がインタビューした先輩と同じ姓だった。
 さらに、祖父の姉(大伯母)は、片品村のその姓の家に嫁いでいる。もしかしたら遠い親戚かもしれない。

 なぜ自分がキリスト教系の家庭連合に導かれてきたのか…。
 筆者はこれまで仏教・浄土真宗の家系だと思っていたが、江戸時代の初期にキリスト教が盛んだった利根沼田をルーツに持つことを知り、その理由が少し分かったような気がした。

 先祖がキリシタンだったかどうかは分からない。しかし、それほど人口が多くない地域だからキリシタンと少なからず交流があったはずだ。

 江戸時代、幕府の弾圧により利根沼田のキリシタンの姿はほとんど見えなくなってしまった。
 だが、踏み絵をさせられても、拷問されても転ばなかったキリスト者の思いが筆者に受け継がれているはずだ。
 これからはキリシタンの末裔(まつえい)として人生を歩んでいくことにした。

(N)