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アウグスティヌス(上)

(光言社『中和新聞』vol.510[1999年4月15日号]「歴史に現れた世界の宗教人たち」より)

 『中和新聞』で連載した「歴史に現れた世界の宗教人たち」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
 世界の宗教人たちのプロフィールやその生涯、現代に及ぼす影響などについて分かりやすく解説します。(一部、編集部が加筆・修正)

マニ教から懐疑主義へ
名誉心と情欲のとりこに

 アウグスティヌスは3541113日、ローマ帝国属州北アフリカのタガステ(現アルジェリア民主人民共和国領)という小さな町に生まれた。当時アフリカはローマの穀倉と呼ばれ、小麦、果実、木材などの産地として重要であった。

 母モニカはキリスト教信者であり、父パトリキウスは異教徒であった。アウグスティヌスは幼少のころからモニカにキリストの名によって祈ることを教えられた。

▲聖アウグスティヌスと聖モニカ(ウィキペディアより)

 成長し、隣町マダウラの文法学校に進むことになったアウグスティヌスは、そこでさまざまな文学作品に触れ、快楽主義を謳歌(おうか)する文学に影響されるようになる。若きアウグスティヌスは愛欲と虚偽の世界へ流されていった。家庭の経済事情によりマダウラでの勉学を中断し、タガステに帰った彼の生活はますます乱れていった。

 そんな息子を見て、モニカは心を痛め幾度となく注意したが、社会の悪習に身を染め享楽になじんだ若者には通じなかった。父は息子の放縦ぶりを案ずるよりも、学費の援助者を探すことに懸命だった。幸い同郷の資産家が学費を援助してくれることになり、アウグスティヌスはカルタゴの学校に行くことになった。16歳の終わりに近い370年のことである。

 カルタゴにおけるアウグスティヌスの生活ぶりは相変わらずであった。

 しかしそんなある日、アウグスティヌスは一人の女性を本気で愛するようになる。彼はまだ学生であり、しかも当時の社会習慣上、正式な結婚を許されがたい関係であったが、彼は彼女との生活に踏み切った。

 ある時学校でキケロの対話篇「ホルテンシウス」が取り上げられた。これを契機に彼の心は一時的で空虚なものから永遠に変わらないものに向かうことを切望し始める。

 聖書を読んでみたが、聖書の文体には魅力がないと感じたアウグスティヌスは、当時広く人々の心をとらえていたマニ教に耳を傾けてみた。マニ教の基本的な特色は二元論で、永遠に対立し、かつ共存する二つの原理として光の国と闇の国があるという。アウグスティヌスは一般信徒としてマニ教に籍を置いた。

 カルタゴで修辞学の勉強を終えたアウグスティヌスは、故郷タガステで教師になった。

 そして新たに哲学、音楽、美学、幾何学などを学び始めた。天文学の知識を深めていくうち、天体に対するマニ教の教理が不確かなものであることに気づく。マニ教の教師たちに質問したが、答えは得られなかった。どこに真理を求めるべきか。彼の心は日々迷いと焦りのうちにあった。

 彼はローマに行く決心をする。そこで懐疑主義に出会う。「人は自己の感覚に基づいてしかも変化するものを見、考え、判断するゆえに、それは主観的、個人的、相対的、不確実であり、普遍性、絶対性をもたない。そこで人間は真理を確実に知ることは不可能である」という立場を取る。この教えがキリスト教はもちろん、マニ教にも失望していたアウグスティヌスに共感を呼び起こした。

 まもなく30歳になろうとする384年の秋、アウグスティヌスはミラノで修辞学教師として働くことになった。ミラノにおける彼の立場は次第に高まり、カ量を認められるようになった。

 モニカは出世した息子に比べて、10年以上内縁の妻として一緒にいる女性がふさわしくないと感じた。モニカに説得され、彼女は深い悲しみと絶望のうちにアフリカに帰っていった。この時子供のアデオダトゥスは13歳だった。

 長年ともにいた女性との別離にさいし、何もなしえなかったアウグスティヌスは矛盾に満ちた生活をしていた。一方では高位の人々と優雅な暮らしを楽しみ、友人たちと高尚な論議をしつつ、他方では名誉心と情欲のとりこになっていたのである。

(続く)

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 次回は、「アウグスティヌス(中)」をお届けします。