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幸福への「処方箋」25

 「幸福への『処方箋』」を毎週火曜日配信(予定)でお届けいたします。

野村 健二(統一思想研究院元院長)・著

(光言社・刊『幸福への「処方箋」~統一原理のやさしい理解』より)

第四章 真の神主義

共通目的と授受作用
 では、万人の幸福実現のためには、どういう人間関係が望ましいかを明らかにするために、これまでに述べてきた「利己主義」、「利他主義」、「公益主義」、「神主義」が、それぞれどういう特徴をもっているかを比較検討してみることにしましょう。

 まず利己主義。これは幸福を実現するに当たって、自分の利益(幸福)しか考えないという特徴があります。この特徴を図示すれば次のようになると思われます。ここでは、当面の相手と全体に対する配慮は全くありません。

 次に利他主義。これは逆に特定の相手の幸福のことばかり考えて、自分のことは何も考えません。これは利己主義と正反対の人生観で、自分と全体への配慮は乏しくなります。

 次に公益主義。これは、自分と相手との関係を考える前に、まず全体への配慮があり、全体のために役立つように、自分と相手との関係を調整しようとするものです。

 最後に神主義。これは、何よりもまず神のためということを考え、その配慮のもとに、神が気づかっておられる人間全体のために尽くそうとします。

 統一原理はこの神主義の立場に立って、人間始祖の堕落のために、その子孫は神に対して無関心となりがちで、また人間同士の関係もうまくいかなくなることが多く、かくして、互いに争い合い、苦しみ合う姿を見て、神はひとり深い悲しみ、苦しみ(これを恨〈ハン〉と呼ぶ)のうちにある。その苦悩から神を解放しなければならぬと主張します。これが最も深い神主義の境地だと思われます。

 再臨以前のキリスト教も神主義ではありましたが、神に自分の犯した罪の許し、あわれみを求めることが中心でした。これはまだ多分に幼児的、自己中心的だといわなければなりません。

 では、このような人間の生き方の四種の類型のうち、どれが最も充実した幸福な生き方なのでしょうか。

 それを明らかにするためには、まず神の人間創造の動機を解明することが必要だと思われます。神は全知全能であられますが、ただ一つ単独ではできないことがあります。それはご自分と同じ知情意を備えた人間との交わりの世界をもつことです。

 「神様がいかに絶対者だとしても、独りでは幸福になることができません。……一生を声楽家として生きてきた人でも、もし無人島に捨てられ、独りで喉(のど)が張り裂けるほど歌を歌ったとしても、幸福でしょうか」(『平和訓経』13~14頁)。

 このように、幸福であるためには、自分と同じ知情意を備えた存在と「何かを与え受ける」ことが必要で、このような作用のことを、第一部で解説したように、統一原理では「授受作用」と呼んでいます。利己主義はそのうち「受ける」ことばかりを考え、利他主義は「与える」ことばかりを心掛けていますが、幸福のためにはこのどちらもが必要なのです。

 この授受作用がなされるためには、両者の間の関係が、「必ず相互肯定的な関係でなければならず、相互否定的であってはならない」(『統一思想要綱』以後、要綱77頁)。こういう授受作用の成立根拠は神(原相)のうちにあると統一思想は説きます。

 原相内の授受作用は、心情(愛を通じて喜ぼうとする情的な衝動)と、その心情を土台として立てられる創造目的を中心としてなされます(要綱79頁)。したがって、神によって創造された人間が、神によって生まれつき与えられている心情を開発し、神の創造目的を統一思想の創造原理を通じてよく理解し、体得すれば、神ならびにすべての人間と円満に授受作用をすることができるようになります。これが神主義の極地です。

 それに対して、公益を目指すといっても、それが人種や階級、国家のような部分的なものを志向するのであれば、自分がめざす部分的な集団目的と相容れない別の集団目的と相互否定的な関係となり、授受作用ができず、闘争を引き起こすようになります。これが神以外のものに忠誠を尽くす公益主義(全体主義)の限界です。

 悲劇的なのは、神の目的と原理を追求する宗教(神主義)的動機から出発するものでも、普遍性に欠けるために、自爆テロのように、なまじ確信があって死をも恐れない結果、かえって悲惨な結果を生むように往々なるということです。

 統一原理は、その啓示に確信をもっても、暴力によってこれを強制しようとはせず(暴力による強制はサタンのすることです)、愛と平和的な説得によってそれを普及させようとします。それは、相互否定的になって授受作用をしないことを、原理的に否定するからです。

 これが平面的な公益主義、神主義と、“真の神主義”との相違です。

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 次回は、「真の神主義」をお届けします