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幸福への「処方箋」22

 「幸福への『処方箋』」を毎週火曜日配信(予定)でお届けいたします。

野村 健二(統一思想研究院元院長)・著

(光言社・刊『幸福への「処方箋」~統一原理のやさしい理解』より)

第四章 真の神主義

利他主義
 したがって逆に、お盆の中にまんじゅうを三つ入れて二つ取る。取ることよりも与えることを多くし、取る時には感謝するという利他主義―永遠に長続きする完全な喜び―これが幸福を得るための基本的な心掛けだということができましょう。

 映画にもなった三浦綾子さんの『塩狩峠』(これは実話から取材したものといわれます)には、永野信夫という若い鉄道職員の話が出てきます。彼は、彼の幼なじみで、のちに再会した吉川ふじ子というカリエスで寝たっきりの娘が好きになり、その影響でクリスチャンになります。そうしてその病気が治らないかもしれないということを知りながら求婚します。

 5年ののち、ふじ子の病気は奇跡的に、結婚生活に耐えうるぐらいにまで回復し、信夫は結納(ゆいのう)のため旭川から札幌へ向かう列車に乗り込みました。途中、塩狩峠の急勾配(こうばい)にさしかかった時、信夫たちの乗っていた客車が機関車と離れて猛烈な勢いでバックし始めました。

 信夫はとっさのひらめきでデッキのハンドブレーキをいっぱいに回しましたが列車は止まりません。このまま行けば列車は転覆です。そう思った瞬間、信夫は線路めがけて飛び下り、自らの体で汽車を止めたのでした。

 もちろん、即死です。その同じ列車に、かつて出来心で同僚の給料袋を盗み、クビになるところを信夫のとりなしで許してもらったり、信夫と見合いで結ばれそうになった美沙と不始末を犯したりして、いろいろ迷惑をかけた三堀峰吉が乗っていました。三堀は美沙が今でも信夫のほうを慕っているのがおもしろくなく、酒を飲んでそれまで信夫にからんでいたのですが、5年越しの愛が今まさに実ろうとする寸前に、死をもって多くの乗客の命を救った壮烈な信夫の愛に接した瞬間、三堀の心は一変してしまいました。

 それまで女遊びはする、大酒は飲む、鼻つまみものであった三堀は号泣して、それからは良き親となり、まじめな職員にと生まれ変わったのです。

 同じような話が中国にもあります。呉鳳(ごほう)という台湾、阿里山(ありさん)の通事(通訳)が48年間にわたって生蕃(せいばん/註:教育の及んでいない野蛮人)の教化に尽くしていましたが、どうしても祭りにあたって人の生首(なまくび)を供えるという、迷信からきた悪習をやめさせることができません。そこで意を決して、ある日の夜中、某所を黄色い頭巾(ずきん)をかぶった人が通る。その首なら取ってもよいと言いました。当日、蕃人(ばんじん)たちが待ち構えていると、まさしく予言したとおりの人が通りかかったので襲いかかって首をはね、明るい所でその顔を見たところ、何とそれは呉鳳の首でした。長年、親以上の愛を注がれ、神様のように慕っていた呉鳳を自分たちの手で殺してしまったのです。そのことから、人を殺すことがいかに大きな罪悪であるかを身にしみて悟り、それからはぷっつりとその悪い習慣を廃したというのです。

 「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネ15・13)。

 「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ17・33)。

 「志士仁人(じんじん)は、生を求めて以て仁(愛)を害することなく、身を殺して以て仁を成すことあり」(論語・衛霊公)。

 このようにキリストや聖賢の教えは、いずれも、自分が犠牲となって、命さえも惜しまずに、他人のため、全体のために尽くすことを最高の徳、善行だとしてこれを勧めています。

 このように互いに、自分を中心として、自分のために生きるのではなく、相手のために心の限りを捧げ尽くす。そうすれば、相手もいい人なら感動して、その人のために尽くさずにはおられない気持ちにさせられるでしょう。その結果、お互いは、人に与える喜びを味わうとともに、人からも与えられる喜びに浴します。したがって、自分中心にものを考える生活態度、人生観、価値観を180度改めて、お互いに自分を捨てて他人のために尽くし合うこと。これこそが幸福を勝ち取るまず根本の秘訣(ひけつ)なのではないでしょうか。そこには対立の生ずる余地がありません。(この生活態度は実際、多くの商売で生かされています。例えば、無料で客に試食させるなど。これは客を喜ばせ、その結果、財布のひもをゆるませるということで、利益が自分に返ってきます。一時的には「与えて」取るという奉仕精神の実践です)

 「与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量(はか)るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」(ルカ6・38)。

 しかし、そうは言っても、死んでしまっては何にもならないではないか。そう思われる人もいるかもしれません。そういう疑問に対して、統一原理は、人間の肉体の死滅によってすべてが失われるのではなく、人間は「有形世界を主管できる肉身(肉体)と、無形世界を主管できる霊人体とから構成され」ており、「有形世界で生活した人間が肉身を脱げば、その霊人体は直ちに、無形世界に行って永住するようになる」(『原理講論』83頁)と説き明かしています。

 それゆえ、真に価値あることのために生き、死ぬことは損失とはなりません。肉身が失われても、あとに大きな感動や偉大な伝統を残していくこと。これは、どのみち死なねばならぬ肉身をいたずらに長引かせるより価値のあることだとはいえないでしょうか。しかし、これはもとより生命を粗末に扱っていいということにはならないことはいうまでもありません。

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 次回は、「公益主義」をお届けします