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ダーウィニズムを超えて 49

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「ダーウィニズムを超えて」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 生物学にとどまらず、社会問題、政治問題などさまざまな分野に大きな影響を与えてきた進化論。現代の自然科学も、神の創造や目的論を排除することによって混迷を深めています。
 そんな科学時代に新しい神観を提示し、科学の統一を目指します。

統一思想研究院 小山田秀生・監修/大谷明史・著

(光言社・刊『ダーウィニズムを超えて科学の統一をめざして』〈2018520日初版発行〉より)

五章 心と脳に関する新しい見解

三)精神と物質はいかにして相互作用をなしうるか

 心と脳、すなわち精神と物質はいかにして相互作用をなしうるのだろうか。この問題に対して、デカルト以後の哲学者や科学者の諸見解を紹介しながら、統一思想の見解を述べる。

1)デカルト
 デカルトは精神と物質は全く異質なものであるとして、二元論の立場を取った。そして脳の中にある松果腺(しょうかせん/松果体)が精神と物質の接触点であると考えた。しかし、松果腺それ自体は物質的存在である。したがって、精神と物質がいかにして相互作用をしているかということに対しては、何も答えていないのである。

2)ボーム
 イギリスの理論物理学者デービッド・ボーム(David Bohm, 191792)は物理学者でありながら、意識の世界まで探求し、独自の宇宙観を展開した。彼は心と物質は根本的には融合していると、次のように語っている。

 もっともっと物質の奥深くにまで内在を求めてゆけば、最終的に、われわれがそれを心としても体験するような、それゆえ心と物質が融合した流れに行きつくと思いますね(*17)。(太字は引用者)

 ボームはさらに、究極的な実存に対して「より深い内奥にあって、より包括的な実存は、心でも身体でもなく、もっと高い次元の実在であると提唱しなくてはならない。それは心と身体に共通する基盤であり、本性上それらを超越した実存なのだ(*18)」と言っている。究極的な実存とは、神といってよいであろう。ボームは神を、心と身体を超越しながら、両者に共通した基盤であると見ているのである。

3)エックルス
 エックルスは、心と脳は異質な存在であるが、シナプスの超微細な機構であるシナプス前小胞格子において、物理学の保存則(エネルギー保存則)を犯すことなく、心と脳の相互作用がなされていると言う。

 さらにエックルスは新しい仮説として、「サイコン」(psychon)と呼ぶ要素的(単位的)な心的事象と、「デンドロン」(dendron)と呼ぶ、およそ200個のニューロンから成る大脳皮質の基本的受容単位(樹状突起の束)について論じている。そして心と脳の相互作用はサイコンとデンドロンの単位的な相互作用に基づいて考察できるのであり、その相互作用はデンドロンの各シナプス前小胞格子において効果的になされるという。

4)光子媒介説
 アーナ・ウィラーは光子が心場と物質場を取り持つ媒介となっているのではないかと考えている。すなわち、精神と物質の相互作用を可能にしているのは光子であるという。彼は次のように説明している。

 現代科学の考え方に従えば、光の粒子——原子を結びつけ、その間を永久に行ったり来たりしている光子——が、この宇宙の中で二つの役割を担っているのではないかという可能性をより深く考えられそうだ。物理学者の目から見た物質世界では、光子は原子レベルで物質の「接着剤」として働いているが、ある意味では「心場」とさまざまな物質場との間を取り持つ媒介として働いている、と見ることができるかもしれない。いや、もしかしたら、光子それ自体が心場だという可能性もある。もしそうだとしたら、光子には、ヤヌスの顔のように二つの側面があることになる。つまり、物質世界に顔を向けると物質の接着剤となり、知性の世界に顔を向けると心の接着剤、あるいは心そのものの性質を持つのだ(*19)。

 ブルックヘイブン国立研究所の科学者であったトム・ストウニア(Tom Stonier)も『情報物理学の探求』の中で「光子がエネルギー成分と情報成分の二つの成分からできている(*20)」という大胆な仮説を述べている。光子には精神と物質の二つの側面があるがゆえに、光子を媒介として精神と物質は相互作用を行っているというのである。

5)統一思想の見解
 統一思想において、精神と物質は異質な存在であるが、根源までさかのぼると両者は一つになっていると見る。すなわち、統一思想は宇宙の根源である神を精神的要素と物質的要素の二性性相の中和体としてとらえるのである。それは二元論でもなく、一元論でもない。二性性相が一つになった統一論または唯一論である。

 現象世界において、精神と物質は異質な存在であるから、心と脳も異質な存在なのである。しかし、根源にさかのぼるほど精神と物質の境界はなくなり、両者は一つになっていくのである。ゆえに人間において、心と脳は異質でありながら、共通な要素をもっているのである。したがって、精神の作用は物質である身体に伝わり、また身体の活動は精神に伝わるのである。

 精神と物質は異質な存在でありながら、根源までさかのぼると両者は一つになっているというデービッド・ボームの観点は統一思想と一致するものである。しかし統一思想においては、ボームが言うように、究極において精神と物質は完全に融合してしまうのではない。神はあくまでも二性性相の存在である。すなわち神は本性相と本形状(精神と物質の根源)の二性性相をもつ一なる存在なのである。

 神において、精神と物質は一なる存在の二性であるが、現象世界においては、精神的存在と物質的存在は異質なものである。しかるに精神的存在も、物質的存在も、共に神に由来するものであって、それぞれ性相と形状の二性性相をもっている。ただ精神的存在においては、性相的要素が形状的要素に比べて顕著になっており、物質的存在においては、形状的要素が性相的要素に比べて顕著になっているのである。したがって、精神的存在である心と物質的存在である脳には共通要素があるのであって、その間に相互作用が可能なのである。

 現代の物理学は微小な世界において、波動性と粒子性が一つになっていることを明らかにした。したがって、われわれは素粒子が波動であるとか粒子であると言えない。素粒子はある場合には波動として現れ、またある場合には粒子として現れるのである。そして、われわれが日常的に見る世界においては、粒子と波動は異なる現象として現れているのである。それと同様なことが精神と物質に関しても言える。精神と物質は原因の世界においては一つになっているが、現象世界においては異なっているのである。

 物質の究極にまでさかのぼりながら、そこに精神と物質の相互作用を探求しようとする、デービッド・ボームや、アーナ・ウィラー、トム・ストウニア等の試みは正しい方向にあると言えよう。今後、そのような立場から、精神と物質の相互作用に対して、さらに解明がなされることが期待される。


*17 ケン・ウィルバー編、井上忠他訳『空像としての世界』青土社、1983年、350頁。
*18 アーナ・ウィラー、野中浩一訳『惑星意識』(日本教文社、1998年)247頁。
*19 同上、262頁。
*20 同上、269

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 次回は、「認識はいかになされるか①」をお届けします。


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