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心情開拓
心霊を育てる生活原則(144)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』200549日第3版発行〉より)

11 肯定的受肉
(1976年912日 東京教会)

▲李耀翰先生

今は心情復活時代

 今は、第3次路程で、蕩減(とうげん)時代ではありません。侍る時代です。今までは、勝利した主体を中心として、蕩減してきました。そして侍るとは、生活圏で主体者の情によって暮らすという意味なのです。内的な姿勢は、主体者の情によって暮らすということです。だから、心情復活時代です。侍る時代です。だから子女の時代です。僕(しもべ)ではない。養子でもない。直接主管される者の時代です。

 だから、霊界は総動員しているのです。そういう人を中心にして、今霊界は総動員しているのです。以前とは、全然違った時代です。以前は主体者を信頼して暮らした時代です。けれども、今の時代は反対です。完全に反対です。対象を主体として、神が地上の人を主体者として、神が信じる時代です。75年からは、神が私たちを信じてくださる時代です。

 秋になって実れば、畑の主人がだれを信じるかといえば、稲を信じるのです。ぶどうの木なら、ぶどうを信じるというのです。実を望んでいるからです。それと同じです。結実時代であるというのです。このような時代に入って、私たちは、どのように自分の心霊を育てていけばいいのでしょうか。今までの蕩減時代のような取り扱いでは、なかなか難しいのです。祈っても、なかなか影響を受けにくいのです。

 生活自体にどれほど情を尽くして、神に認められるかということです。実績です。その実績とは兄弟関係、カイン・アベル問題がどれほど深くなっているのかということです。どれほど、私たちの生活圏において動機が一体となって、君と我、我と君と、情の世界において復活しているかが問題です。初めは理論的に兄弟になって、同じ方向に向かっていくから、「兄弟である。食口(シック)である」と言ったけれども、その中で復帰すべきことは、情の問題です。

 毎日の生活の中で、価値を感じながら暮らせるのです。信仰の時代ではなく、生活の時代なのだから、生活自体に刺激を受けながら、暮らさなければいけません。その刺激は生活圏で、お互いの関係において、刺激を発しなければなりません。だから今、蕩減路程において相当長く苦労した兄弟が、一番疲れる時なのです。統一教会に来て、長くいた人が心霊的に疲れる時です。

 どういう人が疲れるかというと、人間関係が深くない人、相当長く献身的に働いてはきたが人間関係が深くないと、疲れてしまうのです。これは、必ずそうならざるを得ないのです。

 また、私たちにこういうこともあります。み言(ことば)によっての自分か、自分を中心としてみ言を学んでいるのか、ということもあります。

 日本の歴史にこういうことがありました。日本的キリスト教という思想が、相当主張されていました。日本的キリスト教神学を守れと、そういうことがあったのです。それで、警察から呼ばれて、「あなたは、日本的キリスト教を知らないのか。日本的キリスト教をつくれ」と言われたのです。日本の形にはまった何かをつくろうとしていたのです。

 日本帝国時代でなくても、今も、自分的原理、自分的何かをつくってしまうことの多い日本ではないかと思います。自分を否定して、主体者に支配される自分になりたいのが、本性の願いなのですが、そうならずに自分的になってしまうのです。

 自分的なみ言の取り扱い、自分の思想、自分の考え方、自分の好きなように、自分の事情によって、好きなものだけ拾ってと、こういうことが多いのです。み旨においても、私の好きなことはこれだ、とかいうこともあるのです。生活圏においても、私はあれが嫌だ、これが好きだと、こういうことがあるのです。

 ある一人の兄弟に、こういうことがありました。「伝道で第一線において、迫害を受けても、それを5年でも徹底的に接してやっていきなさい」と言うと、「嫌だ」と言うのです。それで、教会長がやむを得ないので、その人の好きなことをやらせて、何年間かたったのです。そうすると、霊界から祖先が現れて、「恥ずかしい」と言うのです。こんな立派なところに来て、なぜあなたは功労がないのか、相当期待をもって今まで協助してきたけれども、「功労がない」と、こう言うのです。

 功労とは何でしょうか。嫌なことが好きになることを、そういうのです。嫌な十字架。復帰路程には、十字架にたくさんぶつかるのです。それを主体者の立場に立って、好きになるのです。自分が今まで暮らしてきた習慣では嫌なことなのです。しかし、主体者の立場で好きになるのです。これが一つの誇るべき功労なのです。親としては、主体者としては、永遠に忘れることのできない因縁になってしまうのです。それは永遠に消えない涙であり、永遠に忘れられない愛になるのです。

 好きなことだけやった場合、祖先が「恥ずかしい」と言うのです。「嫌なことは嫌なのだから、好きなことをやらせてください」という兄弟の祖先が来て、その証(あかし)を聞くと、「霊界の立場、霊界の面子が立たない」と言うのです。「後孫に対して、顔が上げられない」と言うのです。せっかくこのような道に来て、立派な功労を立ててほしいと期待をもって今まで協助してきたのに、自分式に信仰しているので、祖先たちはみんな「恥ずかしい」と言うのです。やはり、自分を主体として暮らしてしまうのです。

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 次回は、「神に所有される私に」をお届けします。


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