2024.02.13 22:00
幸福への「処方箋」14
「幸福への『処方箋』」を毎週火曜日配信(予定)でお届けいたします。
野村 健二(統一思想研究院元院長)・著
第一部 統一原理——その基本的枠組み
第二章 幸福実現への障害発生—「堕落論」
天使と人間の犯罪―霊的堕落
それでは一体なぜ天使長ルーシェルは、女(エバ)に対して、「善悪を知る木」の実を食べても「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3・4〜5)と言って誘惑したのでしょう。この天使についてエゼキエル書28章には、(ツロの王に事寄せて)次のような賛美の言葉が記されています。
「主なる神はこう言われる。
あなたは知恵に満ち、
美のきわみである完全な印である。
あなたは神の園エデンにあって、
もろもろの宝石が、あなたをおおっていた。
(中略)
あなたは造られた日から、
あなたの中に悪が見いだされた日までは
そのおこないが完全であった」(28・12〜15)。
このように、堕落以前のルーシェルは、知恵・美・おこないのいずれもが完全無欠だったというのですから、知情意の全面にわたって非の打ち所のない素晴らしい天使長であったことが分かります。それほど立派な天使長が一体どうしてエバを誘惑して、神に反逆するようになったのでしょう。
エゼキエル書には前述の賛美に続いて、「あなたは自分の美しさのために心高ぶり、その輝きのために自分の知恵を汚(けが)した」(28・17)とあります。すなわち、高慢となり、自分に恵みとして神から与えられたものを神の栄光に帰せず、自分を誇るようになったのが神への反逆の動機だというのです。イザヤ書14章にはさらに次のように書かれています。
「あなたはさきに心のうちに言った、
『わたしは天にのぼり、
わたしの王座を高く神の星の上におき、
北の果なる集会の山に座し、
雲のいただきにのぼり、
いと高き者のようになろう』」(14・13〜14)。
ここにも自分を「神の星」、すなわちアダムの上に置き、「いと高き者」――神のようになろうと思ったというルーシェルの高慢さが強く現れています。しかし、すべての点で非の打ち所がなかったと絶賛されているルーシェルがなぜ突如、豹変(ひょうへん)して、エバに神から与えられた戒めを破らせようとしたのか、その心の微妙な移り行きがよく分かりません。そこで『聖書』に準ずる資料的価値を持っているといわれる旧・新約の経外典、ラビの注釈書、アウグスティヌス以前の教父の諸著作、タルムード、コーランの中から、この問題に関係していると思われる部分を若干抜き書きしてみましょう。(このうち多くは1968年、ケンブリッジ大学のテナント教授がまとめた「堕落と原罪の教義の諸資料」からのものです。)
①愛の減少感
「この天使(註:ルーシェル)はパラダイスにおける特権のゆえにアダムをねたんだ。彼はとりわけ、仕えている天使たちがアダムのために肉を焼いたり、ぶどうの汁をしぼっている時、アダムがそれを当然のようにかまえているのを見て怒った」(ラビ・エフタ・ベン・テマとラビ・エフタ・ベン・バテラ)。
「アダムは、被造物全体の主管者であり、すべての点において傑出しているためにねたまれた」(ビルケ・ディ・ラビ・エリーゼル)。
「神は天使たちに、アダムを『神のかたち』としてその前にひざまずき礼拝するようにと命令され、ミカエルはただちにそうしたが、サタンは拒絶した。言い争いののち神は怒られ、この高慢な天使をそのご座所からしりぞけられた」(アダムの生涯)。
「われらはおまえたちを造り、おまえたちに形を与えた。そのうえで、われらが天使たちに、『アダムに跪き拝(はい)せよ』と言うと、彼らはすべて跪拝したが、ただイブリース(註:サタンの異名)だけは拝しなかった。神は言いたもうた、『わしが命じているのに、おまえが拝するのをさまたげたものは何か』。彼は言った、『私は彼(註:人間)よりすぐれています。あなたは私を火からお造りになりましたが、彼をお造りになったのは土からです』」(『コーラン』7(高壁の章)・11〜12)。
これらの記述は、いずれもルーシェルのアダムに対する競争意識の強さ、高慢さを示すものです。それに対して統一原理は、ルーシェルに対する神の愛の強さが問題の中心だったと見ています。すなわち、「ルーシェルは天使世界の愛の基(もとい)となり、神の愛を独占するかのような位置にいた」。「しかし、神がその子女として人間を創造されたのちは、僕(しもべ)として創造されたルーシェルよりも、彼らをより一層愛された」。神のルーシェルに対する愛の強さに変化はなかったが、「神が自分よりもアダムとエバをより一層愛されるのを見たとき、愛に対する一種の減少感を感ずるようになった」(『原理講論』108〜109頁)というのです。このように、ルーシェルのエバ誘惑の動機は、初めは「高慢さ」のような主体的なものではなく、もっと受け身の対象的なものであり、また単にアダムだけを問題としたのではなく、自分とアダムに対する神の愛の強さの比較という、神を中に挟んでの三角関係と見るべきだと統一原理は解き明かすのです。
②エバの野心
このような愛の減少感から、ルーシェルはエバに目を向けるようになります。
「サタンは、アダムを殺し、エバを奪って自分の妻にしようとした」(ラビ・アシラとラビ・ホシャイス)。
「サタンはエバを自分のつれあいとして一緒に地上を治めようともくろんだ」(ラビ・ベン・カラスタ)。
「サタンはエバにはいり、これをだました」(スラブのエノク書)。「サタンは善悪を知る木によじのぼり、その実に彼の邪悪な毒、すなわち、情欲の毒をだましてふりかけた。なぜなら、情欲が罪のかしらだからである」(モーセの黙示録)。
初期キリスト教文献研究の権威者であり、フランスのアカデミー会員でもあるジャン・ダニエル枢機卿は、「聖書文献批評家の大部分は、この罪(註:原罪)には性的性質が伴っていることを強調している」と言っていますが、実際、アウグスティヌスをはじめとして大部分の神学者は、原罪に性的な動機がからまっていることを認めています。
統一原理は、「このような立場で愛の減少感を感ずるようになったルーシェルは、自分が天使世界において占めていた愛の位置」、すなわちトップの位置を、「人間世界に対してもそのまま保ちたいというところから、エバを誘惑するようになった」と説明しています。
こうしてルーシェルは、エバの夫となることによって宇宙主管者の位置に就くとともに、この上もなく美しく感じられるエバを自分の妻とすることによって情欲をも満たそうと考えたと見られるのです。エバはルーシェルの甘言に乗って姦淫(かんいん)に応じてしまいました。ルーシェルはエバを教育する立場にあったともいわれるので、それだけだますのは容易だったわけです。
ここでルーシェルの犯罪が淫行(いんこう)であったというのは、一見とっぴな説明なようですが、『聖書』の中のユダの手紙に、「主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使(みつかい)たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている」(ユダ6〜7)と記されていることからも確かなことだと思われます。(ここの「同じように」という訳語は漠然としていますが、新改訳には「彼らと同じように」とあり、英訳ではさらに明確に「as the angels did」とあります。)
このルーシェルとエバとの姦淫は霊的なものなので、子供ができるという心配はなく、これだけなら、救済することはそれほど困難ではなかったといわれます。問題なのは、その後のエバとアダムとの関係でした。
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次回は、「肉的堕落」をお届けします。