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拉致監禁・強制改宗
後藤徹さんの闘い 15
「二度と犠牲者を出さない」検察は不起訴処分、後藤さんの闘いが始まった

(世界日報 2023/10/11

20年ぶりの解放感 病院ベットの上で味わう
 両膝の痛み、栄養失調、脱水症状などで都内の病院に緊急入院となった後藤徹さんが車椅子で、診察室から病棟405号室に移ったのは211日午前140分(看護記録による)。歩けなかったので、ベッドの傍らにはポータブルトイレが用意された。

 緊急入院となれば、慣れない環境や体調のことで、不安な夜を過ごすのが普通だろう。しかし、後藤さんは違っていた。とにかく、解放されたことが「本当にうれしかった」のだ。

 後藤さんの1回目の監禁は198710月。この時は1カ月弱で自力脱出に成功する。2回目は1995911日からだった。この間、後藤さんは「いつ再び監禁されるかという不安で、気の休まる日はなかった」という。

 道路脇に停車しているワゴン車を見れば、<自分を拉致するために人が飛び出してくるのではないか>と身構えてしまう。その恐怖心から、1987年春に入社したばかりだった大成建設からの退社を余儀なくされてしまった。この精神的な苦痛は、拉致監禁の被害者にしか理解できないものだろう。

 1回目の監禁から2回目までの8年間、後藤さんは、体が自由の身でも、心は晴れなかった。いつも厚い雲に覆われているような陰鬱な日々を過ごしていたのだ。125カ月の監禁から解放された最初の夜は、病院のベッドの上となったが、心は「やっと自由になれた!」と、20年ぶりの解放感を心底から味わっていた。

 入院から3日目の213日。1人のルポライターが入院中の後藤さんを訪れた。統一教会職員に伴われて取材に駆け付けたのは、拉致監禁によって統一教会を脱会後、心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しむ女性らの証言をルポルタージュした「書かれざる『宗教監禁』の恐怖と悲劇」(月刊「現代」0411月号所載)を発表し、拉致監禁による脱会説得とその犯罪性を世に問うた米本和広さんだ。

 当時、統一教会信者への拉致監禁問題を題材にした単行本出版のための取材を続けていた米本さんは、後藤さん解放の情報を得て、いち早く病院に駆け付けたが、そこで見た後藤さんの体に強烈な衝撃を受けた。その体は「骨と皮、そこに萎えた筋肉がくっついているという感じだった」と証言する。

 米本さんは、下着一枚になるよう後藤さんに求めると、写真を撮った。

 やせ衰えた体や、胃腸が常食を受け付けず入院4日目からしばらく続いた下痢のほか、後藤さんが超長期間、過酷な状況下にあったことを示す体の異常は幾つかある。なかなか改善しなかった「鉄欠乏性貧血」もその一つ。男性の場合、消化管に出血源があったり、食べてもうまく消化吸収できなかったりして起こる病気だが、胃カメラ検査では出血源は発見されなかった。

 「胃カメラで、胃の粘膜が萎縮しているのが見られた。鉄欠乏になったのは、長期にわたる低栄養とストレスのためか、胃の粘膜が萎縮して、食べてもそれを消化吸収する胃腸の機能が低下したことが原因と考えられる」と、診察した内科医は語っている。このため、後藤さんは治療とリハビリだけで、50日間の入院生活を送ることになった。

 監禁中、棄教を強要する家族や宮村峻氏らに対して、後藤さんは「犯罪だ」「人権侵害だ」と叫び続けた。しかし、その度に返ってくるのは「犯罪じゃない。保護説得だ」という言葉と罵声だった。

 度重なる暴力、さらには食事制裁で栄養失調で骨と皮だけの体にし、揚げ句の果ては無一文で放り出す行為と、「保護説得」という言葉の、どこに整合性があるというのだろうか。

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 次回は、「『私は引きこもりではない』後藤徹氏インタビュー」をお届けします。