2024.02.01 22:00
内村鑑三(上)
『中和新聞』で連載した「日本17宗教人の横顔」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
日本の代表的な宗教指導者たちのプロフィル、教義の内容、現代に及ぼす影響などについて分かりやすく解説します。
二軒長屋の教会で布教
武士の心を持つ基督教徒
内村鑑三は1861年3月26日、東京は小石川鳶(とび)坂上(現・文京区)にあった、高崎藩主大河内輝声(きせい)のさむらい長屋に生まれた。当時、父宣之(のぶゆき)は江戸詰めで、この長屋にいたからだ。父は学問が好きで、新しい世の中の動きに目の利く武士だった。
鑑三が6歳の時、一家は高崎に戻ったが、高崎での鑑三は友達と川で遊んだり、魚をとったり、小さい時から自然について深い興味を持っていた。高崎藩主は、すすんだ考えを持った人だったので、早くも英学校を立てていた。鑑三は、そこに通って英語の初歩を習ったり、藩の学校に行って漢文や作文を習ったりした。
その間、世の中は、徳川幕府から明治新政府へと変わり、江戸も東京と名を改めて、文明開化が目まぐるしく繰り広げられていった。1871年(明治4年)鑑三は故郷を後にして父親と一緒に再び東京へ出てきた。友達から、「築地の外国人町で外国人が歌をうたったり、話をしたりしている」と聞いて、彼は好奇心に駆られて、ある日曜の朝、そこを訪ねてみた。
その外国人たちは、友達が言ったとおり、歌をきかせたり、お祈りをしたあと、「コレカラ、エイゴ、オシエマス」と言った。今でいう「日曜学校」だった。高崎で英語の初歩を習った鑑三は、英語と聞いて心をひかれ、それからは毎週、通うようになった。
74年(明治7年)、もっと英語を勉強するために東京外国語学校(のちの東大予備門)に入学、卒業後は、開拓使所属札幌農学校の第二期官費生として、同志18人とともに北海道へ渡った。農学校で、生まれて初めてバイブルというものを手にした。第一期の先輩たちは、5か月前にこの学校を去ったクラーク先生の導きにより、キリスト教信者になっていた。
日本の神様と武士の心を持った鑑三は、先輩たちの、キリスト教信仰の「押しつけ」に最初は反発しながらも、「神は一つなり」という思想に共鳴し、ついには、“イエスを信じる者の誓い”に署名することになった。その後78年、鑑三が18歳の時、学校内で7人の友達と、外国人宣教師から洗礼を受けた。はっきりとクリスチャンとしての道を進み始め、心の安定を得ると、勉強にいっそう励むようになった。
勉強では特に動物学に興味を持ち、「東洋一の魚類学者になろう」と打ち込んだ。一緒に洗礼を受けた7人は毎日曜、寄宿舎に集まり、日曜礼拝を続けた。
4年間の学生生活を終えた鑑三は、心にキリスト教と友との愛情を、頭に動物学やさまざまな知識をいっぱい吸い込んで、21歳の7月、クラス一番の成績で札幌農学校を卒業した。1881年(明治14年)のことだった。さっそく北海道開拓使御用係という役人になって、水産物の調査をすることになった。東京では、自由民権運動がようやく一つの実りを得たころだった。
役所の仕事をするほかに、友人たちと札幌に二軒長屋の一室を借りて教会を作り、布教にも努めた。82年、22歳の時、鑑三は開拓使の仕事を辞めて東京に引き揚げた。アワビの研究では高い評価を得ていたが、貧しい暮らしに落ちていた父母に孝養を尽くすため、高給をもらえる農商務省の役人の道を選んだのである。
しかし、いざ役人になってみると、鑑三は大きな失望を感じた。立身出世のためには、うそ偽りや、おべっかも平気で言う人たち、怒りを簡単に酒に紛らす人たちなど、役人たちの考え方や生活の仕方は、彼にとってがまんのならないことばかりで、そのころの日記には、「空虚」とか「意気消沈」という言葉がよく書かれている。
そんな時、彼は浅田夕ケという京都の同志社を出た、クリスチャンの女性と結婚したが、これもうまくいかず、数か月後には離婚してしまった。「キリスト教信者のくせに離婚するとは」と、世間の人からはひどく非難された。
こうして、いろいろ悩み、苦しみながら、東京での生活を2年ほど送った後、彼はアメリカに旅立つことになる。新しい、本当のキリスト教を自分の中に発見するために、クラーク先生の国、キリスト教徒の国、アメリカを求めていったのである。彼は別のところで「日本を愛するがゆえにアメリカにわたって、日本を見直そうとした」とも言っている。「迷える羊」——この時の内村鑑三がまさにそうだった。アメリカに旅立ったのは、1884年(明治17年)11月、23歳の秋だった。
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次回は、「内村鑑三(下)」をお届けします。