2024.01.25 22:00
フランシスコ・ザビエル(下)
『中和新聞』で連載した「日本17宗教人の横顔」を毎週木曜日配信(予定)でお届けします。
日本の代表的な宗教指導者たちのプロフィル、教義の内容、現代に及ぼす影響などについて分かりやすく解説します。
伝道の成果1000人
日本を動かす信仰運動展開へ
1549年8月15日、43歳のザビエルとその一行7人は、鹿児島県の田之浦海岸に降り立った。海岸にはたちまち大勢の人が集まってきた。
はるばる海の彼方から来たザビエルの目には、初めて見た日本の国の風習がどのように映ったのだろうか。2か月半の滞在ののちに、ザビエルがゴア(インド)のイエズス会へ送った手紙には、最初の印象が詳しく記録されている。
「この国民は、私がめぐりあった国民たちのうちで一番優れている。日本人は全体的によい素質をもち、悪意がなく、交際してみるとまことに感じがよい。彼らの名誉心は特に強烈で、武士であろうと平民であろうと、貧乏を恥だと思っている者はいない。彼らには、キリスト教国民のもっていないと思われる一つの特質がある。それは、武士がどんなに貧困でも、平民がどんなに金持ちでも、その貧乏な武士が、金持ちの平民から、大金持ちと同じように尊敬されていることである。住民の大部分は、読むことも書くこともできる。これは、祈りや神のことを短時間に学ぶための、すこぶる有利な点である」
キリスト教は日本人の心の中に自然に受け入れられた。その年の9月、ザビエルは領主の島津貴久(たかひさ)に呼び出され、キリスト教を自由に広める許可をもらった。島津は、ザビエルを通じてポルトガルの貿易船もおのずと鹿児島に集まり、鉄砲を手に入れることができると考えたからである。
熱意あふれる伝道によって、80人、90人と信者が増えていった。しかし、鹿児島に1年近く滞在するうちに、ザビエル一行は、仏教の僧侶や信徒たちから激しい攻撃を受けるようになった。対立はますます激しくなったが、島津は仲裁しようとせず、むしろ領内でキリスト教を広めることを禁止し、これにそむく者は死刑にするという厳しい命令を出した。島津の期待に反して、ポルトガルの船は平戸(長崎)の方へ行ってしまったからである。
周囲の事情がこう悪化してしまっては、さすがのザビエルも動けない。翌1550年の9月、ザビエルらは京都に向かって出発した。ザビエルは日本を訪れる前から「日本に66国を治める大王(天皇)がいる」と聞いていた。彼はその「日本の大王」に会って、日本国じゅうにキリスト教を広める許可をもらいたいと思っていたのである。旅路ははなはだ困難であり、盗賊が横行して危険だった。足は腫(は)れあがって血がにじむ。泊まる所は馬小屋だったが、ザビエルの心は神への信仰に燃えて、いつも明るくはりきっていた。
途中、平戸と山口に立ち寄り、1551年の1月、ついに京都に着いた。夢にまで見たあこがれの都であったが、たび重なる戦いで破壊され、見るも無惨な状態にあった。みすぼらしい服装で、献上品も持たないザビエルが天皇に面会を申し込んでも追い払われるばかり。
ザビエルは、わずか11日間京都に滞在しただけで山口へ向かった。「日本人は清らかで貧しい暮らしがどんなに尊いものであるかを理解しない。何事もうわべだけで判断する」
ザビエルは、山口の領主に珍しい外国製の品物をたくさんプレゼントすることによって、伝道の許可をもらった。ザビエルはパリの大学で10年以上も勉強していたので、日本人の素朴な質問にも的確な回答を与えることができた。こうして山口で5か月ほど伝道し、600人近い信者を得た。やがて豊後の領主・大友義鎮(よししげ=宗麟〈そうりん〉)も洗礼を受けた。ザビエルは忙しい伝道の合間をぬって100通以上の手紙をゴアのイエズス会に書き送っている。
日本に適する神父を選び出すためと、不足しているものをインドから持って来るために、ザビエルは2年3か月にわたる日本伝道をひとまず終えて、インドへ帰ることにした。ザビエルの伝道によってキリスト教信者になったのは千人に満たなかったが、この千人足らずの信者によって、日本の歴史を動かすような信仰運動がやがて壮烈に展開されるのである。
1552年8月、ザビエルは日本へ再び赴くために、広東(カントン)近くの上川(サンシャン)島で待機していたが、今までの苦労がたたったのか高熱を出し、8日目には意識も失って、同年11月3日(川中島の戦いの前年)、ついに46年にわたる波乱の生涯を終えた。ザビエルの遺体は今も、ゴアのザビエル礼拝堂に安置されている。
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次回は、「内村鑑三(上)」をお届けします。