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心情開拓
心霊を育てる生活原則(140)

 原理を生活化するために、李耀翰(イ・ヨハン)先生(1916~2019)が信仰のイロハを日本人の心情を分析しながら説かれた講話集、「心情開拓~心霊を育てる生活原則」を毎週金曜日配信(予定)でお届けします。
 家庭連合の教会員の皆さまはもちろん、世代を超えて多くのかたに読んでいただきたい書籍です。

李耀翰・著

(光言社・刊『心情開拓~心霊を育てる生活原則』200549日第3版発行〉より)

11 肯定的受肉
(1976年912日 東京教会)

▲李耀翰先生

不信は自己肯定から

 肯定的受肉という題名で、二、三話してみたいと思います。

 復帰摂理から見て、不信という条件は、主体と対象の関係において、自分を中心とした動機、自分を中心とした情の発露から起こる。一言で言うとそうなると思います。信仰という言葉は、主体者を決めて、自分は主体者の者だ、主体者に主管されるという決意をしたことが、信仰といわれているのでしょう。それなのに、主体者の立場でなくて、自分の事情や、自分を中心としての情の発露をなす、それがサタンの条件となり、それが不信なのです。

 それは、アダムの家庭から、ずーっと民族的摂理や、メシヤを中心とした摂理と、続けて原理的にそうなってきているのです。

 それで、旧約、新約時代を通じて、私たちは主体者を決めたのです。もちろん、だれしもが何か中心を決めて暮らしているのですが、信仰路程においては、主体者を決めて暮らしているのです。そうして、だんだん自分を否定し始めるのです。蘇生期、長成期において、主体者を決めたのです。そして、それを絶対視して、それを自分は慕って、服従していくと、そのように決めたのです。

 けれども、知らず知らずのうちに、自分が主体みたいに考えるとか、自分が原因になって、否定すべき自分を肯定してしまったのです。簡単にいえば、不信というのは、否定すべき自分を、肯定してしまったことです。アベルの前に、カインは自分を否定すべきであったのに、自分を肯定してしまったのです。自分の位置で、アベルを判断してしまったのです。ハムの場合もそうなのです。それは自分の立場、自分の判断、自分を失敗者の立場で取り扱わなかったのです。

 簡単にいえば、不信の原因は、自分という者をだれの者にして、だれの立場、だれの事情によっての自分としてとらえたか、考えたかによるのです。

 復活は、主体者によっての自分になった時に、なされるのです。急には、神様と自分の関係を結びにくいので、まず生活圏内において、主体と自分を決めるのです。例えば、けさならけさ、このように集ったのも、自分を否定して何かの主体者を絶対視して、このように集った私たちです。これが、主体を求めていく方法であり、生活です。本性の求め方は、主体と対象関係において、私たちの生活圏、私たちのみ旨、「原理」なら「原理」と自分なりに主体を決めて、自分をいつも、自分が決めた主体によって取り扱っていくことです。

 蘇生復活、長成復活、完成復活とありますが、復活成長というのは、結局、み言(ことば)によって自分を徐々に否定しながら、主体者の事情、立場を徐々に自分のものにしていくことです。

 結局、今まで失敗したというのは、不信したというのは、主体者よりも自分を考えたとか、自分が生きようとした時に、そうなるのです。「死なんとする者は生きん」という言葉は、どういうことかというと、主体者を絶対視するということでしょう。どんな苦しい時でも、どんな時でも、主体者によって自分を取り扱うということです。主体者を中心として、自分を否定することが、死のうとする者の考え方であり、生活の仕方なのです。

 不信するというのは、結局それを誤ることなのです。私たちが、なかなか本性の道を歩けないのは、自分が出てきて、自分を否定したようでも、いつの間にか肯定してしまっていることが多いのです。「過ぎ去ってみると、自分を肯定していた」、こうならないようにするのが私たちの闘いなのです。根本的な闘いなのです。私たちの動機が、主体者によっての自分か、自分によっての主体者なのかが問題です。

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 次回は、「動機の成長」をお届けします。


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