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シリーズ・「宗教」を読み解く 299
キリシタン時代の女性たち①
朝鮮半島出身のおたあジュリア

ナビゲーター:石丸 志信

 1612年に徳川幕府がキリシタン禁を出し、原主水(はら・もんど)ら駿府の家臣14人を追放した時、侍女たちに対してもキリシタンをやめるよう命じた。侍女たちの中にも何人かのキリシタンがいたからだ。

 中でも、ジュリア、ルシヤ、クララと呼ばれる3人が主だったキリシタンだった。駿府の大御所である家康は、彼女らに信仰を捨てるように命じ牢屋に閉じ込めた。
 特に、おたあジュリア(ジュリアおたあ、とも)はいかなる厳しい拷問を受けようとも、キリストの教えを捨てることはないと固く決心していた。

 家康は、彼女のその態度に憤り、伊豆大島に流刑に処した。ジュリアは30日間伊豆大島に滞在したが、さらに遠方の新島へ、15日後には神津島に流されている。

 ジュリアは、朝鮮半島の生まれで豊臣秀吉の朝鮮出兵の時、日本に連れてこられた女性。キリシタン大名の小西行長に養女として育てられ、1596年ごろに洗礼を受けている。
 ジュリアは小西行長の妻ジュスタに仕えながら信仰深い婦人に成長していった。関ケ原の戦いで豊臣方が破れ、小西行長が領地没収、死刑となった後に、家康の侍女となった。

 当時の宣教師の報告の中にもジュリアのことはたびたび登場する。彼女の気高さと慈悲深さ、側室たちの中で生活しながらも信仰を保つために努力している姿がうかがえる。ミサにあずかるため、口実を設けてはたびたび教会を訪ねていたようである。

 流刑地に向かう船に乗るため、駿府から網代港までかごに乗せられたが、途中、石ころだらけの道をキリストに倣い素足で歩いた。傷ついた足からは多くの血が流れた。
 乗船する前に巡察師フランチェスコ・パシオに宛てた手紙を書いている。その中で、多大な恩恵に感謝し、流刑地での困難な生活を耐え忍ぶ覚悟を述べるとともに、祈りの中で覚えてほしいと願っている。

 新島では、先に流罪となっていた異教徒の二人の婦人が、ジュリアの感化を受け洗礼を望んだ。
 洗礼の仕方を知らなかったジュリアは、二人にマグダレナとマリアの洗礼名を付けた。彼女たちは、以後キリシタンの自覚を持って生活した後、マグダレナは殉教したといわれる。

 ジュリアは流刑地に移ってからも教会との連絡は取り続け、信仰の炎を抱き続けた。
 おたあジュリアは最終流刑地の神津島で亡くなったと言い伝えられているが、彼女の最期については定かではない。
 島では、彼女の遺徳をしのぶ人たちによって1970年から毎年5月にジュリア祭が催されている。

【参照】
①片岡弥吉著『日本キリシタン殉教史』(時事通信社、1979年)
➁太田淑子編『日本、キリスト教との邂逅』(オリエンス宗教研究所、2004年)



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