2023.12.11 22:00
神主義と頭翼思想 8
「堕落観念」に徹する
堕落の悲惨さを認識することが神主義への志向を生む
ナビゲーター:稲森一郎
新しく連載がスタートする同シリーズのオリジナル記事は、1995年10月から1996年10月までの期間、『氏族教会FAX-NEWS』に連載されたものです。
文鮮明(ムン・ソンミョン)・韓鶴子(ハン・ハクチャ)総裁夫妻が提唱し、推進してこられた「統一運動」と、その運動理念である神主義、頭翼思想。その価値を再認識、再発見する機会としていただくために、稲森一郎氏の執筆による「神主義と頭翼思想~その理論と実践」をBlessed Lifeに再掲します(一部、編集部が加筆修正しました)。ぜひご活用ください。
悲惨な歴史の中から生まれたメシヤ思想
長く冬の寒さに震えた者のみが、春の暖かい太陽の日差しを心から喜ぶものである、といわれるように、堕落世界とそこに住む人間たちの悲惨さを心底味わった者のみが、真に理想世界を憧憬(どうけい)することができると言えるのではないでしょうか。
例を挙げると、エジプト、バビロニア、ローマなどの大国に絶えず悩まされ続けた小国イスラエルの歴史は、辛酸をなめつくした歴史として旧約聖書に描かれていますが、そのような歴史の中から生まれたメシヤ思想は激しく神の理想を求めています(イザヤ書第60章)。
また朝鮮半島も、中国と日本に挟まれて絶えざる侵略を受けた受難の歴史を持っていますが、このような悲惨な歴史の中からメシヤを待望する民族性が培われたことは、『鄭鑑録』や『格菴遺録』などによって知ることができます。
神が与えた「良心」という善悪のクライテリオン
人間としての最大の悲劇は何でしょうか。
それは堕落の悲惨さの中で生活しながら、少しも惨めさや悲しさを感じることができないという人がいるならば、まさにそのような人は悲劇の最たる人であると言えるでしょう。
悪や罪に対する感性がはなはだ乏しく、堕落世界の悲惨さをほとんど感じることができないという人は、良心が眠りこけてしまっているのです。
人間のそのような状態から、善なる世界を希求する神主義の理想が生まれる余地は毛頭ありません。
偽りの愛、堕落の愛に多く涙した人はきっと、本性が求めるところの不変の愛、すなわち真の愛を誰よりも求めるに違いありません。
争いに明け暮れる醜い世界に生きて、多くの苦しみを味わってきた人は、争いのない調和と信頼に満ちあふれた世界を心から求めるに違いありません。
人間の良心は、善悪に対するクライテリオン(判断基準)の大いなる武器として神が与えてくださったものである以上、人間は誰しも悪を拒絶する力を持っているはずです。
しかしながら、環境世界全体が悪の力に流されているような状況下では、悪いと知りつつも、悪に対する良心の反発力が阻止されて、悪にのまれてしまうということが往々にして起きてしまいます。
「堕落観念」に徹することは神主義への第一歩
「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5・48)というイエスの言葉は、各人が神の完全性に似ることこそ、神主義の理想実現の基礎であることを宣言しているわけですが、このような基準に達することは絶対にできないと、ほとんどの人が絶望感を抱くほどに、人間は悪に対する敗北感を持っており、罪に対する弱さを持っています。
しかし、このような現実を乗り越えていかなければ、神主義の理想は永遠に実現できません。
堕落した人間たちが、神主義の理想に近づく方法は何か。
少し逆説的に聞こえるかもしれませんが、堕落観念に徹するということが一つの意義ある方法なのです。というのは、自分の中にさまざまな罪を自覚する、社会の中にさまざまな罪を見る、そうすると、そこから、罪の自覚とその罪に対する反省心あるいは悔い改めが生じます。
罪の自覚は罪に対する戦いの始まりです。従って、堕落観念に徹することは、罪に対する一つの宣戦布告であり、罪に対する良心の反発力が生きている証拠です。
もし、自分を見つめる時も、社会を見つめる時も、堕落、すなわち、罪の力への敗北というものを見落としてしまった場合、ただ堕落世界の現実に流されてしまうのみです。
これでは真の愛を中心とする神主義の理想を追求する心も起きず、惰性に流されたむなしい生活と、たとえ罪を犯してもさほど悔い改めもしない中途半端な生活だけが待っていることになるでしょう。
堕落観念に徹することは、神主義へ近づく第一歩です。罪の自覚なきところに、神主義は存在しません。