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神の沈黙と救い 53

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「神の沈黙と救い~なぜ人間の苦悩を放置するのか」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 神はなぜ人間の苦悩を放置するのか、神はなぜ沈黙するのか。今だからこそ、先人たちが問い続けた歴史的課題に向き合う時かもしれません。(一部、編集部が加筆・修正)

野村 健二・著

(光言社・刊『神の沈黙と救い』より)

あとがき

 私は実は、自分の願望さえ神の願いと一致していれば、私の求めに対して神が沈黙しておられるなどということは絶対にないと、幸運にも信仰をもち始めたばかりの32歳のころに体験で知ることができた。

 6日間にわたる聖書の研修会の時、神の実在性について、科学的、心情的、歴史的に、知的にも情的にも全く申し分のない証明がなされたので、心から驚いて、理屈としてははっきり分かった。しかし、なお念のため、「目で見て確認したい」とスタッフにいったら、何と事もなげに、「じゃ祈って神に直接聞いてみたら」と言われた。この願いがかなうためには、よほど真剣でなければならないだろうと思って、夜を徹して声をふりしぼって祈ったものだった。

 翌日、講義の時、昨夜の祈りのことは忘れてしまい、講師の一言一言に心を傾けていると、講師の口から、「神の心情とは四季のようなものだ」という言葉が出てきた。「春のようにのどかでやさしく人の心を明るく照らしていくかと思うと、夏のように峻烈、やいばのように人の心をえぐって目覚めさす……」と、詩のような表現を聞いていた時、私は窓際にいたのだが、窓から塵に浮いて射し込んでくる光が、その春夏秋冬に合わせて渦を巻き、講師がたとえるとおりの色に変化してくるのを見た。

 それがあまりに鮮やかだったので、隣の受講者の腰を腕でつついて、「さっきはすごかったな」と言うと、狐につままれたような顔をしていたため、初めて、あれは自分にだけ見えたリアルな幻覚だったのだと分かった。それまでは、光が本当に物理的に変化したとしか思えなかったのである。そして、そういえば昨日、神を見せてほしいと祈ったことを思い出し、その祈りが聴かれたのだと深く感動したのであった。

 私にはこういう経験があるので、神の「沈黙」ということを聞いても、実のところあまりぴんと来ないのである。信仰という点では全く初心者で、この研修会に参加するまで、宗教に触れたことは一度もなく、神が存在するなどとは考えたこともなかったほどなのに、それでも神は答えてくださった。それなのに、長い修行を積んだ司祭の祈りに神が何も答えられないなどということが本当にあったのだろうかと、不思議に思いさえするのである。

 しかし、理論的にいえば、この本で説明したように、イエスの十字架の救いとはそういうものなのだ。イエスご自身がそうであったように、どんな苦痛と苦悩の限界状況でも神は沈黙され、その信じられない状況を信仰をもって乗り越えたときに、初めてその霊が救われるのである。私の体験は時代が改まってからの特別の恩恵であったに相違ない。そう考えれば理論的にも納得がいく。

 このように、体験と理論とさらに、資料(聖書もその一つ)の三つの角度から確認されたものを、自分の責任で一つの答案として書いたのが本書である。読者のわずらわしさを考えて、わざわざ細かく論証しなかったところもあるが、そういうところでも、私の内部では検討済みのところばかりで、十分責任をもつことができると信じている。

 とはいえ、目に見えない神の世界についての論究であるから、信仰告白的な内容もあったかもしれない。また当然、考察の大前提となったのは統一思想である。統一思想は、聖書に比喩(ひゆ)的に述べられている神の事情と心情を、ユークリッド幾何学のような単純明解な根本原理に従って厳密に解き明かしたものである。

 この本を形あるものとしてくださったすべての人々、この本を手に取ってみてくださったすべての方々に感謝しつつ。

1996年81

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 「神の沈黙と救い」は、今回が最終回です。ご愛読ありがとうございました。