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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(129)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
九、天情と人情

▲金元弼先生

神に仕える者の祈り

 皆さん、人によって、静かな所でお祈りができる人もあれば、動きながら、働きながらお祈りをする人もいます。人によっていろいろ違うだろうと思います。動きながらお祈りする人もいれば、目をつむっては何もできないから、目を開けてお祈りする人もいるのです。

 では皆さんの中で、決まった静かな所でお祈りがよくできる人は手を挙げてください。大部分ですね。そういう所ではなかなかお祈りができず、仕事をしながらのほうがよくできる人はいますか。少ないですね。また祈り始めたら終わりまで祈りがきちんとできる人と、途中で切れる人、長い人と短い人がいます。その次、お祈りがよくできる人、瞑想(めいそう)がよくできる人もいます。お祈りをするとき、涙が出るときと出ないときと、どっちが多いのですか。

 先生は、御存じのとおり、ある問題を解決するために、まずお祈りをされます。先生はすべてを行いながら、同時にお祈りも兼ねていらっしゃることを分かってほしいと思います。また、先生は、時々、過激な運動をしながらお祈りをされると、韓夫人からお聞きしました。

 お祈りをしようとすると、眠りが来て、できないときがあります。そういうときには、かえって動くことがいいのです。お祈りといったら、ある所を決めて、そこでお祈りするのがお祈りだと考えている人がいるかもしれませんけれども、女の人でしたら、台所で働きながらお祈りすることもできれば、バスの中でもできるし、どこでもできるのです。

 皆さんは、12時に寝て、6時に起きるとしたら、12時から6時まで、ぶっ通して寝ます。12時に寝て、途中で起きてお祈りするということはなかなかしません。先生は、「寝る前、神様に、『私にはまだなさなければならない復帰の摂理が多くあるにもかかわらず、これから休まなければなりません。このような私をお許しください』とお祈りして休む」とおっしゃいました。先生はいつでも、「これから寝るのだ」という心では寝られないのです。また、寝ていても安らかではないのです。寝ていても、パッと起きて、またお祈りをされます。そうして、いつの間にか寝てしまうのです。

 先生は、お祈りしているのに寝ていらっしゃるのです。疲れていらっしゃいますから、お祈りしようとすると、霊界は先生を寝かせてあげるというのです。

 子供が勉強していて、疲れて机の上で寝ているのを親が見たらどうしてあげますか。子供を抱いて、ベッドの上に寝かせてあげます。そのとき、勉強を熱心にしていて寝てしまった子供を、ベッドに寝かせる親の心は、どうでしょうか。「我が子は偉い。立派になるんだ。だから私が保護してあげなければいけないなあ」という心が出てくるのです。

 神が先生を寝かせてあげるとき、その気持ちは、それと同じなのです。

 「これから私は眠る」と思って寝るときには、ぐっすり眠ることができますけれども、「寝る時間ではない」と思ったときには、とても短い眠りになります。ですから先生は、何回も起きてはお祈りして、また寝て、起きて、寝てという生活をなさるのです。それは、「私は寝てはいけない」という心でいっぱいだからです。ですから先生は、寝巻きにすっかり着替えて寝られるということがないのです。上着を脱いで、そのままベッドの上で寝られることがよくあるのです。

 私は、最初先生からみ言(ことば)を聞いて恵みを受けていた時は、なかなかお祈りができませんでした。どのようにお祈りしてよいのか分かりませんでした。ただみ言に感動した時から、家に帰ったり、学校へ行ったり、教会に行ったりする中で、いつもみ言が私の心から離れませんでした。それで、歩きながら、動きながらお祈りしました。心情に触れて、泣きながら歩きました。自分の事務所の机で仕事をしながらも、祈ることができました。

 しかし大勢の人たちが、教会で徹夜しながらお祈りしていました。私は、どうしてお祈りができないのだろう、と疑ったことがあります。ある時、「動きながら祈るのも祈りだ」と言われて、非常に安心しました。ですから忙しい時には神は、「お前はトイレに入っても祈るつもりだね。それでも汚くないよ。私は、お前がこういう所でお祈りするのが気持ちいいんだ」と言われるのではないかと思います。

 私はよく、バスの中でお祈りします。トイレに座っても、よく祈ります。考える時間があるからです。歩きながらも、よく祈れます。

 私自身は、いつもこんなことを考えるのです。バスの中でよく「私の誓い」を宣誓しますけれども、その時、たくさんの人たちがこのバスを使ったでしょうが、いったい誰が「私の誓い」を宣誓しただろうかと考えるのです。ハイドパークに行くと、ベンチがあります。このベンチに座って宣誓する時には、「今までに、ここでこういうお祈りをした人が何人いただろうか」と考えながらするのです。そうしたら、神が喜んでお祈りを聞いてくれますから、このベンチも喜んでくれるだろうと考えます。

 先生は、時々、山に登ると、岩にお座りになってお祈りされます。すると、「その岩が本当に喜んでいるのを感ずる」と言われます。というのは、たくさんの人たちが山に登ってきて、たまには自分の上に座ってくれた、しかし、その人たちは真の人でなかったから喜べなかった、というのです。万物は、真の人に主管されるのを願いますから……。ですから、先生が座ってくれたことによって、岩がこの世に存在して以来、これほどの栄光の日はないというのです。

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 次回は、「自分の責任で体を管理」をお届けします。


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