2023.09.24 13:00
信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(124)
家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。
金元弼・著
第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
八、悔い改めた時は出発した時と同じ
現実問題のとらえ方
霊界に引っ掛かった、ある人の話をしてみましょう。先祖の中に、お嫁に行ってその姑(しゅうとめ)の虐待に耐えきれずに、首をつって死んだ人がいました。その人が霊界に行って引っ掛かっているのです。引っ掛かっているので、自分の子孫を通じて恨みを解放したいと願います。そこで、自分がこういう立場であることを子孫に言うのですが、子孫は霊界に通じないので分かりません。ですから、それを分からせようとして、痛みを与えたり、病気にしたりします。ところが、病院に行っても原因が分からないのです。
結局、神に通じている人に見てもらえば、それはあなたの先祖の中で、そういう恨みをもった霊がついているからだと分かります。そのついている霊は誰であり、誰がこのようにあなたを病気にさせたかを知らせ、その次に、あなたを通じて恨みを解放せんがためであると教えるのです。
ところが皆さん、考えてみてください。どうして首をつった者が天に引っ掛かるのでしょうか。その嫁は、その問題で死にたいという境地に責められた時に、なぜ、死を選ばなければならなかったのですか。苦しい問題の解決を、自分を中心として解決しようとしたから、死を選んだのです。問題視したのは、その嫁自身です。彼女は、死んだらすべて忘れてしまうと思い、その苦しみから逃れようとしたのです。
ところが、すべての存在は相対的です。ですから主体なくして存在することはできません。そしてその主体は、主体自身のためにあるのではなく、相対のためにあるのです。「ためにあって存在する」のです。神の存在も、神御自身のためにあるとするならば、神の存在もあり得ないのです。そういうことで、もともと人間は、「ためにある存在」なのです。
そういう原則にのっとれば、その自殺した嫁は、だんなさんの家のためにいる存在だということになります。だんなさんのために、そして子供のためにいるのです。ところが、苦しい時に自分が苦しいと、自分のことばかり考えたのです。「もし私が死んだならば、相対者はどうなるのだろうか、子供たちはどうなるのだろうか、この家はどうなるのだろうか」ということを考えたならば、死の道を選ばなかったでしょう。
もう一つは、人は神のためにあるのですから、その苦しい時に、死にたいなあと思った時に、自分のことを考えないで、私が死んだら神はどうなるのだろうかと考えるのです。しかし、皆さんは、そういうことに慣れていないのです。先ほど話したように、死にたいという心情は、神やメシヤに死にたいという死の苦しみがあることを、姑の虐待を通じて嫁に知らせてくれたものとして考えなければいけなかったのです。
そうすると、神はいつ死にたかったのでしょうか。人間が神を知らずして、神のみ言(ことば)を聞かない時に、神はその人間をすべて滅ぼしたいという心情でいっぱいだったのです。こういう話を、よく聞くでしょう。
ある人が死の境地をさまよう時、その人は神を知らない人であっても、「こういう私でありますけれども、私を助けてくださいましたら、本当に神がいることを私は信じます。永遠に神に仕えます。本当に神がいるとするならば、今私を助けてください」と祈ります。そして神は、その人を助けました。そこでその人は、神を知らない人でしたけれども、これから神を信じて神に仕えたいと決心しました。
ところが、その心も全部すぐなくなり、薄れてしまって、それからどんどん離れた生活をしてしまいました。そしてそういうことが、何度もその人に繰り返されました。このようにして、その人は神を遠ざけていきました。そういうときに、神はその人に対して、非常に喜ばれたでしょうか、心が痛んだのでしょうか。そうしてそれが一人だけでなく、全人類がそうであれば、神には、すべて殺してしまいたいという心が起こります。そしてもう一度造りたい、そういう心もあったのです。
ところが、神は人のためにあるのですから、人類を滅ぼすということは、結局は、神御自身を滅ぼすことであるのです。神御自身を否定するということです。そういうことで、神も御自身を滅ぼしてしまいたいと、そういうことも考えたというのです。神御自身の苦しみを考えたならば、すべてを滅ぼしたいのです。けれども、もし神が滅んでしまったとしたら、この人間はどうなるのだろうかと考えると、人間を滅ぼせないのです。神御自身も、滅びの道を選ぶことができなかったというのです。そういう神であったのです。
神も、こういう立場でありながら、神御自身が死の道を選ばなかったとするならば、人間も、そうしなければならないのではないかというのです。神はそうしなかったのに、人間は苦しいからといって、自分の生命を断ってしまいます。これは、神の心情を蹂躙(じゅうりん)するという結果になるというのです。ですからその嫁が、人のために、神のためにいるという生き方をしたとするならば、天に引っ掛かることはなかったのです。
---
次回は、「先祖解放の基点は私」をお届けします。