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神様はいつも見ている 22
~小説・K氏の心霊体験記~

徳永 誠

 小説・K氏の心霊体験記「神様はいつも見ている」を毎週土曜日配信(予定)でお届けします。
 世界平和統一家庭連合の教会員、K氏の心霊体験を小説化したものです。一部事実に基づいていますが、フィクションとしてお楽しみください。同小説は、主人公K氏の一人称で描かれています。

3部 霊界から導かれて
3. 妻のための100日条件

 妻を伝道するために祈祷条件を立てたのはいいけれど、実は私は祈祷の方法がよく分からなかった。
 というのも、神道にはキリスト教のような個人的に祈る祈祷というものがなかったからである。

 神道の祈祷は、祝詞である。それは最初から形式文があって、その文章を10回、100回、1000回、朗々と繰り返すというものだった。

 例えば、有名な「天津(あまつ)祝詞」は、「高天原(たかまのはら)に神留(かむづ)まり坐(ま)す 神魯岐(かむろぎ)神魯美(かむろみ)の命以(みことも)ちて皇親神(すめみおやかむ)伊弉諾尊(いざなぎのみこと)筑紫(ちくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(をど)の阿波岐原(あはぎはら)に禊祓(みそぎはら)ひ給(たま)ふ時(とき)に生坐(あれませ)る祓戸(はらへど)の大神等(おおかみたち) 諸々(もろもろ)の禍事罪穢(まがことつみけがれ)を祓(はら)ひ給へ浄(きよ)め賜(たま)へと申(まを)す事(こと)の由(よし)を 天津神(あまつかみ)國津神(くにつかみ)八百萬(やおよろず)の神等共(かみたちとも)に 天(あめ)の斑駒(ふちこま)の  耳振(みみふ)り立(た)て聞食(きこしめ)せと恐(かしこ)み恐み白(まを)す」といったもので、それほど長いものではないが、祈祷に当たるものである。

 基本的に神道の祈祷は、その精神が穢(けが)れを清め祓うという言葉によって心身の汚れを清浄にするためのものだ。

 日本神話では、イザナギの神が妻のイザナミの神が死んで行った黄泉(よみ)の国を訪ねていき、そのとき、悪霊などの穢れが身に憑(つ)いたので、水で禊(みそぎ)をして祓うという場面がある。
 神道の儀式も基本的にそれと同じようなことをする。

 身体的な穢れは、川や海などの水によって洗い流し、心を傷つけた悪心や悪霊などは祝詞によって洗い流すのである。
 その点では、お経(きょう)を読む仏教も似ていると言っていいかもしれない。

 自分の言葉で何時間も祈るキリスト教や統一教会(現・家庭連合)の自由な祈祷は、その意味でとても大変なことだった。
 これまで、私はそんな祈祷を全くしたことがなかったからだ。

 どうやったらいいか悩んだが、最終的には神様に自分の真なる心を示すこと、決めた時間を守り、どんなことがあっても、やり通すことを目標にした。

 それでこの期間は、最初に「神様、今からお祈りします」と宣言し、祈りの言葉が出てこないときには聖歌の録音テープを流してしのいだ。

 そのようにしながら、1日の10分の1である2時間24分を過ごした後、「これで終わります」と言って立ち上がった。それが私のできる精いっぱいの祈祷条件だった。

 祈祷条件としては「○」ではなく、せいぜい「△」くらいのギリギリで合格ラインに達した条件だったと思う。

 そのことは褒められた話ではない。神様も実際にはあきれていたかもしれない。
 だとしても、この100日間の祈祷条件は、人間に条件を立てさせまいとする悪魔、サタンの存在や悪霊の妨害というものを実感する期間となった。

 100日間の祈祷条件をするというのは、神様と私だけの秘密であり、約束だった。
 ところが、そのように祈祷条件を決めるや否や、不思議なことにそれまでにはなかった出来事が次々に起こるようになったのである。

 例えば、仕事が終わって帰ろうとすると、その瞬間を狙ったかのように、上司や同僚から、「一杯、行こう」と酒席に誘われるようになったことだ。

 「いやー、なんとなくおまえと一杯やりたくなってな」

 「今日でなくても…」

 「いや、今日飲みたいんやわ」

 そんなこんなで、付き合いが悪いと言われて人間関係が悪くなるのはまずいと思い、今日ぐらいはいいかと、一杯付き合うことにした。
 ところが不思議なことに、それが毎日のように続くのだ。

 偶然ではないと思った。
 何かが私の条件祈祷を邪魔しようとしている。そう感じた。

 「ああ、これはサタンだな」

 それで、私は、「全て受け入れて、とことん付き合おう」と腹をくくった。
 もちろん、その場で断ればいいことではあったのだが、その後の人間関係や仕事のことを考えて、あえてその選択はしなかったのだ。
 時には、仕事の相談や会議を飲み会で、という話もあったので、断りにくいという事情もあった。

 統一教会に入会した以上、そして、100日間の祈祷条件を立てている以上、いくら付き合いだからといって酒を一緒に飲むわけにはいかない。自分自身を失い、条件に失敗してしまうかもしれない。
 だから、酒の席は共にするけれども、酒は飲まなかった。

 上司や同僚からは、「どうして飲まないのか」「飲んだらええやん」「俺の杯(さかずき)を断るのか」などとさんざん言われたが、なんとかやり過ごした。

 当時、私は片道1時間半かけて職場に通っていた。通勤だけで13時間である。
 「一杯」に付き合えば、帰宅は早くても夜の10時、11時。遅い時は午前零時を過ぎた。午前3時を回ることもあった。

 すると、私の心の中に、「日付が変わると、条件は失敗ではないか」とか「今から祈祷したら、2時間しか寝られない。明日の仕事に差し支えることになってしまう」などといったさまざまな思いが湧いてきた。

 そんな思いにつぶされそうになりながらも、「たとえ失敗だったとしても、最初に神様に約束したことは絶対に守ろう!」と、自分を鼓舞した。

 100日を終えたその朝方、夢を見た。

 初めて姉から統一原理の講義を受けた前夜と同じ聖書の話の夢だった。
 以前見た時は新約聖書の黙示録の場面の夢だったが、今度は旧約聖書の内容だった。

 当時は、まだ統一原理や聖書について詳しく学んでいなかったので、どういう場面かよく分からなかったが、後にそれがユダヤ教徒やキリスト教徒、そしてイスラム教徒からも「信仰の父」と尊敬されているアブラハムという人物のことだったことを知ることになる。

 アブラハムは、最初偶像商のテラの長男として生まれ、後に神に召命されて、イスラエル民族の祖となった人物だったが、私が夢で見たのは、有名な「イサク献祭」と呼ばれる、父のアブラハムが愛する息子のイサクを神にささげる場面だった。

 当時、神にささげる供え物は羊や牛などの動物が主な祭物で、それを刃物で裂いて火で焼くというものだった。
 動物ではなく、自分の大切な息子をささげよと命じられたアブラハム。葛藤し苦悶しながらも神の願いに応えようとして刃物を掲げた時、神が遣わした天使がそれを止めるというシーンだ。

 「あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」(創世記2212節)

 その言葉が夢の中で響き、続いて、私に向かって天使が神の言葉を紡いだ。

 「これからあなたの人生にはさまざまなことが起こるだろう。だが、必ず最後は私が導く」

 これがキリスト教の神様との初めての出会いだった。

 目が覚めた時、私は祈祷条件を立てた100日という期間をかみ締めていた。
 今日は何かいいことがありそうだと予感した。

 妻は100日間の私の姿をつぶさに見ていた。

 「この人は一度決めたら変わらない。しゃあない、私もやるしかないと思った」

 妻は私にそう話した。

 私は妻の言葉を聞きながら、背後に神の心情を感じていた。

(続く)

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 次回は、「変更された人生の設計図」をお届けします。