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信仰は火と燃えて 9
越えるべき大きな坂

 「信仰は火と燃えて」を毎週火曜日配信(予定)でお届けします。
 教会員に「松本ママ」と慕われ、烈火のような信仰を貫いた松本道子さん(1916~2003)。同シリーズは、草創期の名古屋や大阪での開拓伝道の証しをはじめ、命を懸けてみ旨の道を歩んだ松本ママの熱き生きざまがつづられた奮戦記です。

松本 道子・著

(光言社・刊『信仰は火と燃えて―松本ママ奮戦記―』より)

越えるべき大きな坂
 大阪には、既に岩井裕子さんが伝道に行っており、根拠地は鴫野(しぎの)という町にある長屋の二階でした。下には60歳ぐらいの軍人あがりの夫婦が住んでいました。

 さあ、きょうからここが私の開拓地です。大阪に着いた日、まず町の中をぐるっと回ってみました。非常に雑然としていて、人々の理性基準が低いというのが、大阪に対する私の第一印象でした。なにしろ日常のあいさつに「もうかりまっか」という具合で、お金もうけのことしか考えないので、町の中は汚れ放題に汚れているのです。

 大阪は大きな坂です。関西に入るにはまずこの大きな坂を越えなくてはならないと思うと、町の中を歩きながら気が引き締まるのを感じました。

 さっそく駅での路傍伝道、そしてキリスト教会探しから始めました。大阪にはクリスチャンセンターというのがあり、毎週日曜日に早天祈祷会を行っていました。6時半ごろ集まって、みんなで朝の祈祷をし、朝食をとりながら親睦(しんぼく)会をするのです。

 そこには全国からやって来たクリスチャンや牧師が集まっていました。私は、こんなに伝道対象者が大勢いる!と小躍りして喜び、神様はなんてすばらしい所を与えてくださったんだろうと感謝して、毎週クリスチャンセンターに通うことにしました。

▲大阪教会にて、左より小河原、藪内、岩井、田中、岩井

 しかし、ここでもクリスチャンの心の壁は厚く、最初は喜んで受け入れてくれるのですが、統一教会と分かると次第に敬遠し始め、あいさつもしなければパンフレットも受け取ってくれなくなりました。けれどもそんなことであきらめる私ではありません。必ず分かってくれる人がいると信じて通い続けました。

 また大学にも行ってみました。しかし、ここでも誰もパンフレットを受け取ってくれません。そこで、伝道方法をいろいろ変えてみました。大きな布に終末論の図解説明を書き、それを広げて説明したりもしました。それでようやく人が集まってくるようになり、10人ぐらいの人が教会に集うようになったのです。

 教会が発展するか否かは私の気持ち次第で、私が力強く張り切っている時は人が増えてくるのですが、疲れてグッタリしていると、いつのまにか人が減ってしまいます。ですからどんなにつらい時も決して弱音を吐くまいと決心して頑張りました。

 路傍伝道は梅田駅と天王寺駅の二箇所でやっていました。大きな布に“救いとは、人間祖先の堕落によって始まった罪悪世界を創造本然の世界に復帰し、神の天宙創造の理想を実現することである”と書いて、その旗を掲げて路傍伝道をしたのです。

 するとある日、周藤健さんという人が突然教会に訪ねてきました。小さな男がちょこちょこ来たので、初めはあんまり大物ではないと思っていたのですが、あとで聞いてみると学校の先生だというではありませんか。私は驚いて、真剣に講義を始めました。

 彼は、天王寺の駅の近くにある聾(ろう)学校の先生で、路傍伝道をしているのを聞いて“不思議だなあ”と思ったそうです。どこか普通のキリスト教と違う感じがするのですが、もらったパンフレットを見ると世界基督(キリスト)教統一神霊協会と書いてあり、やっぱりキリスト教なのです。そこで彼は、掲げている旗に書いてある救いの定義を読んで、なるほど、これは一遍聴いてみようと思って訪ねてきたのでした。

 それも毎晩来るのです。私が路傍伝道を終えて8時か9時ごろ帰って来ると、ちゃっかり2階に上がって待っていました。クリスチャンだったので、まず最初にメシヤ降臨と再臨の必要性を講義して、次に創造原理、堕落論と入っていきました。彼は「ほおっ」と言って驚きながら聴いているかと思えば堕落論の時などは、先生ともあろう者が、はらはらと涙を流して泣くのです。そして、

 「もう遠くなくしてメシヤが来るんですか。この言葉は誰が語ったんですか」

 と聞くのでした。そこで私は、

 「もうすぐメシヤは来ます。私はそういう啓示を受けました」と答えたのです。すると彼は目を輝かせ身を乗り出してきました。

 「では、メシヤが来たら、奇跡が起こって聾(耳の聞こえない人)の人たちがみんな治るのでしょうか」

 「治りますとも」

 こうして彼は希望に満ちて、私のたどたどしい講義を1カ月間聴き続けてくれました。

 その後、彼を東京にいる西川先生に紹介しました。上京した彼は彼なりに判断し、考えるところがあったらしく、2日もしないうちに帰ってきて、緑のメガホンを一つ買って一緒に路傍伝道を始めました。聾学校の高等部を教えながら、夕方になるとパンフレットをまいたり、路傍伝道をしたりするのです。

 「2000年前のイエス様の声が再び聞こえてきました。御通行中の皆様……」

 そうして伝道するうちに、彼は献身しようと考え始めました。すると同じ学校で先生をしている60歳のおばあさんが、「あなたはクリスチャンでしょ。この惨めな聾学校を捨てて献身するとは何ごとですか」

 と言って彼の心を打ち砕くのです。子供たちのことを言われると、彼の決心は根底から揺らいでしまいました。そして、

 「やはり私は学校を辞めることはできません。時々はあなたのことを手伝いますから、私のことはあきらめてください」と言い出したのです。

 私は、彼はもっと大きな使命をもっている人だと思ったので、もう必死になって祈って、毎日学校に訪ねていきました。

 「あなたはイエス様のゲッセマネの心情を忘れたのですか。聾学校の生徒を教えることも本当に大切なことだと思います。でも、あなたにはもっと重要な使命があるのではありませんか。彼らに真の救いをもたらす人はあなたしかいません。そのためにもまずあなた自身が神様のために働いて、彼らを主の前に紹介しなければならないのではありませんか」

 こう涙をもって訴えると、彼は、確かにそうだとうなずくのです。彼にとってはどちらの言うことももっともなことで、いったいどうすればいいのかと相当迷い考えたことでしょう。天に大きく用いられる器だからこそ、それだけ試練も大きかったのです。しかし、何日間も迷い考えた結果ついにその試練を乗り越え、東京での40日間の修練会に参加して、そのまま献身してしまいました。そこまで決心するためには、彼自身も内心ずいぶん闘ったことでしょう。けれども私としても、彼をなだめたり発破(はっぱ)をかけたりしながら、彼の救いとその使命を思って神の前に日々祈り続けたのでした。

 しかし、試練が大きかっただけに、一度決心すると誰よりも熱心で、たちまち彼はすばらしい原理講師になったのです。寝る間を惜しんで原理講義を勉強し、心に響く独特の講義をするので、彼の講義を聴くとみんなはらはらと涙を流して泣くのです。

 決意するまでは大変苦労しましたが、神様が必要としている大物を東京に送ることができ、天と共にその喜びをかみしめました。

▲周藤健氏と倉森董代さん(1962年10月)

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 次回は、「信仰と奇跡」をお届けします。


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