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宣教師ザビエルの夢 6

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「宣教師ザビエルの夢」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
 1549年8月15日、鹿児島に一人の男が上陸した。家族や故郷を捨て、海を渡った男が、日本で夢見たものは何か。現代日本に対する彼のメッセージを著者が代弁する!(一部、編集部が加筆・修正)

白石喜宣・著

(光言社・刊『宣教師ザビエルの夢-ユダヤ・キリスト教の伝統と日本-』〈1999429日初版発行〉より)

第一章 日本人とユダヤ・キリスト教

二、切支丹大名の夢

ユスト右近
 高山右近は、先駆けてキリスト教信仰を受け入れた父の導きで、12歳の時に受洗しました。洗礼名は義人を意味する「ユスト」。少年のころに入信し、宣教師らにも深く愛されて育ったゆえに、その名にふさわしく、キリスト教の理想と徳を素直に自分のものにしていくことができたのでしょう。22歳で摂津・高槻城主となってからは、領民への布教や慈善にも努め、その領内において愛徳に満ちたキリスト王国の実現を目指しました。最盛期には壮麗な教会が二十ばかり立ち並び、孤児院や神学校(セミナリオ〈◆注4〉)もあったといいます。

▲高山右近の像(高槻市)

 右近は、秀吉の家臣として戦にも功労を立て、また、千利休の高弟の一人に数えられる文武両道に秀でた人物でした。他の大名からも慕われ、宣教師たちからも信頼されていました。それがかえって、秀吉の猜疑(さいぎ)心をかきたてたのでしょうか、ついには棄教を迫られます。秀吉の意志に従って棄教するか、信仰を保って領地を返上するかの決断を迫られました。そのとき、彼は潔く領地を返上し、追放の身に甘んじることになるのです。ここにキリスト王国の夢はついえ、彼においては、それから四半世紀に及ぶ苦難の道程が始まります。時は1587年、「伴天連(バテレン/◆注5)追放令」による日本の切支丹(キリシタン)迫害時代の序章でもありました。

 1614年、徳川幕府の切支丹国外追放令によって、彼は一族とともにフィリピンのマニラへ流されます。1か月の航海の後ようやく到着したマニラでは、総督および市民から大変な歓待を受けたといいます。義のために責められるキリストのしもべ、信仰の英雄が日本からはるばる訪れたのを放ってはおけない、というわけです。しかし、そんな好意に甘んじることなく、彼は貧しき者として生きる決意を示します。熱烈なキリスト者(◆注6)の群れに囲まれて、信仰者としていくらかの慰めを得たかに見えた右近でしたが、熱病にかかり、40日後にはこの世を去るのです。死の床にあっても恐れなく、神への感謝と信頼は揺らぐことがなかったといいます。「『我が主を仰ぎに行く』と繰り返しながら、自分の魂を創造主に返した」と、臨終に立ち合った神父は記しているのです。(H・チースリク著、『高山右近史話』聖母の騎士社、1995年)

◆注4:セミナリオ/中等教育機関、下級神学校の機能を備えていた。
◆注5:伴天連/カトリック神父。
◆注6:キリスト者/司祭、修道者、一般信徒を含めた、キリスト教徒全般を指す。

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 次回は、「見果てぬ夢」をお届けします。


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