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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(122)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
八、悔い改めた時は出発した時と同じ

▲金元弼先生

兄弟を通して神の心情を知る

 皆さんは、神の心情が知りたい、先生の心情が知りたいと願います。知りたいのですが、なかなか分かりません。神の心情が分かりますか。分からないでしょう。神の心が知りたい、先生の心情を知りたいという人に、神は神の心情を知らせる義務があります。また神は、人々に神の存在、神の親心を知らせなければいけないのです。

 ところが、どのようにして私たちに神の心情、親の心情を知らせるのですか。神の心情を知らせようとして、我々の兄弟を使うのです。あるいは他の人々を用いるのです。

 例えば、ある人が私を苦しめるので、本当に嫌だということがあるとします。そういうときには、今その人が私を苦しめるように、私が親の心をこんなに苦しめているのだということを、その人を通じて、兄弟を通じて、あるいは世間の人を通じて知らせてくれたのだということを忘れてはいけないのです。自分を中心としたら、絶対にそれを解決できないのです。

 自分を苦しめるその人の立場に、自分もいると考えるのです。自分がどのように神を苦しめているかが分からないから、私を苦しめることによって、「お前はこんなに苦しいだろう、死にたいくらいに苦しいだろう。そのくらいに私は、お前のことで苦しんでいるんだよ」と知らせてくるのだと考えるのです。兄弟だと考えると、「けしからん」と叱りつけてしまうのです。

 そうではなく、「あっ、これはこのように先生が私のために気を遣って苦しんでいらっしゃるんだ、神様が私のことでこのように苦しんでいらっしゃるのだ」と考えるのです。そして、神の苦しみを慰めるためのお祈りをしなければいけないのです。このことを考え直した時に、こんなに私が神の心に痛みを与えたのですかと、まずおわびを申し上げ、お許しを願わなければならない私を発見することになるのです。

 そういう立場にある者が、人を叱りつけることができますか。神様は私のためにこのように心を痛めた、けれどもこのような私を、いつかは愛される子となるようにと、私を叱りつけないで、遠くで眺めていらっしゃるのです。そして、私の心を見て本当に良くなってほしいと願って、私に対してくださったと考えるのです。その時に、神様の、先生の心を慰める立場に立ち返っていくのです。

 そうしたのちに、「ああ、私はこのようにあなたを苦しめたのですね。それじゃ、私はそんなことをこれからしません」。そう考えると同時に、その人に対しても、「神様や先生は、私たちのためにこんなに苦労していらっしゃるんだ。だから、あなたはこれからはこのようにしないでほしい」と言うのです。

 ところがそう考えずに、自分の気分が悪いから、しゃくにさわるから、その人に対して、「なぜ、そんなことをするんだ」と言うのです。そうなれば、相手はかえってまた反抗します。

 ですから、人が私を苦しめるのは、その人を通じて神の心情を知らせんがためであることを考えると、人に対して「悪い」と言う前に、「あなたがこのようにしてくれて、本当に感謝します」と感謝の心までもつことができるのです。自分を悩ませる人に対して、感謝の念で対するようになるのです。なぜならその人は、神の心情、先生の心情を知らせてくれた有り難い人であるからです。このようになるのです。

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 次回は、「許しは神の心情から」をお届けします。


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