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シリーズ・「宗教」を読み解く 282
キリスト教と日本(61)
復活の希望をもたらした永井隆

ナビゲーター:石丸 志信

 1945年1123日、廃虚と化した浦上天主堂前で開かれた浦上教会合同慰霊祭で、信徒総代永井隆の弔辞を読み上げる声が響いていた。

 「幸いなるかな泣く人、彼らは慰められるべきなり。…主与え給い、主取り給う、主の聖名(みな)は賛美せられかし。浦上が選ばれて燔祭に供えられたる事を感謝いたします。この償いの犠牲(ぎせい)によって世界に平和が再来し、日本の信仰の自由が許可されたことを感謝いたします。希(ねが)わくは死せる人々の霊魂、天主の御憐れみによって安らかに憩わんことを。アーメン」(『愛の歌・平和の歌~永井隆の生涯』李文熙著 崔玉植・薄田昇訳/サン・パウロ 2005年 5154ページ)

 愛する者を失い、財産も何もかも失って苦しみにあえぐ人々をさらにむち打つかのように「天罰が下ったのだ」と非難する声があった。
 自らもそのように捉えて一層悲嘆にくれる人たちがいた。

 永井隆の弔辞に込めたメッセージはそれらを払拭するものだった。イスラエル民族の苦難と解放、イエス・キリストの受難・死・復活に重ねて、復活の希望をもたらすものだった。

 永井隆は、病身を押して研究・執筆活動を続ける傍ら、浦上天主堂の再建にも尽くした。
 1948年になるといよいよ病床での闘病生活を余儀なくされる。

 その頃、カトリック教会と近隣の信徒の協力で一坪の小さな病室が寄贈された。この館は如己堂(「己の如(ごと)く人を愛せよ」)と名付けられた。

▲如己堂

 彼はこの館で執筆を続け、魂のほとばしりを書に記してきた。
 『ロザリオの鎖』『この子を残して』『長崎の鐘』『いとし子よ』など、戦後脚光を浴び、映画化された著作もある。津和野に配流された浦上キリシタンの物語『乙女峠』が彼の絶筆となった。

▲如己堂の内部

 1949年はザビエル渡来400年に当たり、聖人の聖腕が捧持(ほうじ)され、日本全国を巡回した。530日、浦上公民館に安置された聖腕への接吻(せっぷん)が許された。

▲1949年に日本に運ばれた聖フランシスコ・ザビエルの聖腕

 1951年に彼の容態は悪化し、51日に長崎大学付属病院に入院。午後9時過ぎに意識不明に陥ったが、強心剤が打たれ一時意識を回復。「イエズス。マリア、ヨセフ、わが魂をみ手にまかせ奉る」と祈った。
 長男が十字架を渡すと、ひったくるようにして受け取り、「祈ってください」と叫んだかと思うと息を引き取っていた。享年43



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