2018.08.12 22:00
幸福への「処方箋」2
第一章 幸福と創造原理
幸福とは何か
アプリで読む光言社書籍シリーズ第4弾、『幸福への「処方箋」~統一原理のやさしい理解』を毎週日曜日配信(予定)でお届けいたします。
野村 健二(統一思想研究院元院長)・著
人間は一体何のために生きているのでしょうか。これは簡単なようで難しい問題です。 これが分からないばかりに「人生は不可解」という遺言を残して、 華厳(けごん)の滝に飛び込んで自殺した人もあったほどです。
ある人々は子供を少しでも有名な学校に入れようとし、会社に入れば平社員よりは係長、課長、部長、重役と少しでも高い地位に就こうと必死になります。またある人々はそんなことより腕利きの映画監督となり、世界中の人々の心を魅了する映画を数多く作ることに生き甲斐を感ずるかもしれません。あるいは、シュヴァイツァー博士のようにアフリカの奥地にまで行って黒人の医療伝道に力を尽くすことこそ自分の使命だと思う人もあることでしょう。
このように人生観は千差万別ですが、多様な中にも一つの共通点があるように思われます。それは何らかのかたちで「幸福になりたい」と願っているということです。
幸福とは何か
それでは幸福とはどういうことでしょうか。それを明らかにするために、統一原理の主唱者――文鮮明先生に認めていただいた私の作詞、「幸せって何だろう」を例示してみましょう。
一、
幸せって何だろう 星に尋ねてみた
みんな仲良くすることさ 星は答えた
大きなお陽さま中にして 九つの星が回る
愛の光を受けながら これが幸せ
二、
幸せって何だろう バラに尋ねてみた
美しさを競うことさ バラは答えた
赤白黄色に装って どれもこれもがかわいい
大事な花と言われれば これが幸せ
三、
幸せって何だろう ひばりに聞いてみた
高くはるかに飛ぶことさ ひばりは鳴いた
どんなに高く飛ぼうとも お空の果ては遠い
まだまだ上にゃ空がある これが幸せ
四、
幸せって何だろう 羊に聞いてみた
主(ぬし)を信じていくことさ 羊は鳴いた
狼どもが襲っても 飼い主さんの声に
耳を向けてりゃ安心さ これが幸せ
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(註)この歌詞は、はじめ『心情圏』という雑誌に投稿した時、二番の「どれもこれもが」が「どの花見ても」に無断で書き変えられました。「どれもこれも」は表現が乱暴に見えたからでしょうが、「どの花見ても」では、次の「大事な花」と「花」が重なって不細工です。誤記されたのは四番の「信じて」のところで、当時、謄写版印刷で字がうすくて読めず、「探して」と書き変えられてしまったのを後で発見しました。これは「信じて」でなければ、主題の「信仰」の意味がうまく出ず、もっと問題なのです。
歌詞の主題は、一番・愛(暖かさ)、二番・美(かわいさ)、三番・希望(創造性)、四番・信仰(委託)です。
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この歌は私が東洋大学の講師をしていた時、夜間の学生に講義をするため、夕方少し早めに控え室から校庭を見ていたところ、夕焼けがあまりきれいだったので、日頃から統一原理を三歳の子にも分かるぐらいにもっとやさしく表現できないものかと思っていたのが動機となって、三番がひとりでにメロディーつきで一気に口を突いて出て来たのです。その後、このメロディーに合わせて一番と二番を作り終えた時に講義の時間になって出かけ、四番は翌日になって作りました。このように即興的にできたものは、霊的な協助があるためか、いつも出来のよいものであることが多いのですが、この時もそうでした。
これらの内容は、子供にも分かる歌詞をと願ったせいか、あるいは私自身が子供っぽい性格のためか、子供っぽさに幾分片寄った幸福観ですが、私が作った順に幸福というものの特質を分析してみます。
まず三番。これは一人遊びに夢中になっている子供の状態のように見えます。どんなに高く飛んでもそれが最後ではなく、可能性が無限に残されていて終点がないということ。それが幸せだというのは、人間に神のような無限の「創造性」が与えられている喜びを、私が常々実感していたことを反映しているように思われます。
これは第二章で詳しく説明するつもりですが、「神が創造主であられるがゆえに人間を主管し得る資格をもっておられるように、人間も万物を主管することのできる資格をもつためには、神の創造性をもたなければならない」(『原理講論』以後、講論一三一頁)。そのために、神はそれが本然でない用い方をされ得ることも承知の上で、無限の創造性を無条件で人間に与えられたという事情があると思われるのです。現に、創造性を発揮して、それまで誰も考案しなかった発明工夫をした人には特許が与えられます。これは幸福であり名誉なことですが、この創造性が誤用されれば、大きな害毒がもたらされます。その最たるものが近代兵器です。これは幸福の正反対である不幸――大規模な傷害、殺戮(さつりく)をもたらします。
なお、この「ひばり」の行動は幼児の一人遊びに似ていますが、本当に一人かといえばそうではなく、これを親が見てくれていることを暗に期待しているというところがあります。ひばりは「高く飛び」、それを親の立場の者が「見守る」ということが、幸福の要件となっていることを見過ごせません。このようなやりとりの関係のことを統一原理は「授受作用」と名づけています。ひばりは高く飛ぶことを親の立場にある人間に見せ(授け)、人間の見守(りを受け)る。この「授受」の関係が幸福実現の重要な要件となるのです。
この三番の詩のような発想が初めに私の脳裏に浮かんだのは、私の専攻である心理学の研究の主題が「創造性」でしたので、当時、学生を中心として社会人まで集めて結成していた日本独創性協会の運動に熱を入れており、統一原理の、「神と人間の創造性」という観点から、初め主として関心を持ったためであろうと思われます。ただ、これが幸福というものの序論としてはふさわしいものだと思われなかったので、改めて「星」の歌詞を作って、これを一番の詩に持ってくるようにしました。
一番の「みんな仲良くする」――これが幸福というものの最も基本的な性格だと私は思います。『統一思想要綱』には、上述の授受作用の基盤となる「相対的関係」について、それは「二つの要素や二つの個体が互いに向かい合う関係」で、それは「必ず相互肯定的な関係でなければならず、相互否定的であってはならない」(七七頁)と規定されています。このように仲良くなれる存在基盤について『統一思想要綱』には、「太陽系は太陽と九つの惑星から成っているが、太陽と惑星は主要素と従要素であって主体と対象の関係を結んでいる」(一八七頁)と説明しています。「主体は対象に対して、中心的、積極的、動的、創造的、能動的、外向的であり、対象は主体に対して依存的、消極的、静的、保守的、受動的、内向的である」(『統一思想要綱』以後、要綱一八五頁)。
これを平たく童話的に説明すれば、太陽は地球などの惑星の父親の立場にあり、地球は太陽の子供の立場にあるといえます。みんなが幸福になれるためには、父親のように中心に立って、「愛の光」を放っている暖かい存在が必要で、その「愛の光」を基盤にしながら、争うことなく、引力に当たるものを絶えずやりとり(授受)することが願われるといえましょう。この幸福の一番根本となるものを統一原理は、“主体と対象の格位(資格上の位置)とそれに基づく授受作用”だと定式化しています。一番はこの最も根本的で普遍的な関係を提示しているので、最初の歌詞にふさわしいといえます。
二番は、一番に提示された「愛」に対して、それと呼応するものとして「美」の競演が歌われています。幸福の根本となる「愛」を呼び起こすものはまさに「美」です。そこに美があるからこそ愛がそれに刺激されて高められるのであり、また胸のうちに深い愛があればこそ相手を美と感ずるのだといえます。美の特色は赤、白、黄色というように多様であることであり、それゆえにこそどれもこれもが「かわい」く「大事な」のであり、その感動を胸の中にしまってしまわずに、「大事な花」だと口にするのは愛の告白にほかならず、こうしてひたすらに愛されることのうちに、愛することと共に、幸福があるのだといえましょう。このように幸福の核心となるのは、知性や意志よりも心情――愛と美の授受作用だということを二番は示しています。
なお、三歳の子供でも分かるくらいにということから、一番では「愛の光を受ける」、二番では「大事な花と言われれば」と、いずれも、依存的、受動的な幸福観となりました。
最後に四番では、この幸福を風当たりの強い現実の中でどう保っていくことができるかということを中心として、「信仰」の大切さを取り上げてみました。現実は常に神の固い守りのうちにあるとは必ずしもいえず、遺憾(いかん)ながら「狼ども」、すなわちキリスト教でいうサタンが跳梁(ちょうりょう)する罪の世界です。そこで「主(ぬし)を信じていくこと」、すなわちメシヤ(キリスト)への信仰が大切なので、「飼い主さん(メシヤ)の声に耳を向けてりゃ安心さ」と、幸福をおびやかす者に対する防衛策を、最後のしめくくりとして述べたわけです。
さて、神(ならびに神の代身のメシヤ)とサタンとの戦いの歴史を一種の暗号をもって解き明かしたのが『聖書』です。その暗号をくまなく明瞭(めいりょう)に解読したのが『原理講論』で、これを本書で平たく簡明に、クリスチャンでなくても違和感なく理性的に理解できるように説明してみたいと思います。(続く)
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次回は、第一部 第一章の「授受作用」をお届けします。