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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(119)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
八、悔い改めた時は出発した時と同じ

▲金元弼先生

み言を自分のものにする

 親が、食べたいものを食べず、人の寝る時に寝ず、使いたい時に使わないで、お金をたくさんもうけたとします。そして親は、そのお金、財産全部を、その子供に相続してあげました。相続したのだから、この財産は子供のものになっていると考えると思います。ところが、そうではないのです。なぜなら、親はたくさんの財産を得るために、今話したような苦労した内容をもっているのです。ところが子供はこういう過程を通じないで、そのまま受け取ったのです。

 自分のものとなるためには、親がこういう内容を通じて得たように、子供もそういう内容に通じなければなりません。そうして初めて、自分のものになるのです。そうすれば、そのお金はどんどん増えていくのです。

 それと同じく、私たちは先生からたくさんの恵みを受けます。み言(ことば)を受けます。先生が私たちに与えてくださるのは、神のため、人類のためにすべてを尽くした、そのうえで得たみ言であるのです。先生のみ言は、ただ伝え聞いたものではなく、先生が神のために尽くすことによって得たものです。ところが、私たちは尽くさないで、このみ言を受けます。ですから、私たちは、いろいろなみ言を受けて知っているけれども、そのみ言は、自分のものにはまだなっていないのです。自分のものではなく、先生のものなのです。

 神様や親は、み言が子供のものになることを念願します。神様や親のものですけれども、それが子供のものになるように念願するというのです。その願いにこたえるためには、子供自身が尽くして、その内容を備えなければいけないのです。そうしてこそ初めて、み言が親のみ言であり、また子供のみ言にもなるのです。ところが人々は、み言を受けて、これを自分のものにする過程を通じないで、そのまま人に伝えます。そしてその人も、受け取ってそのまま伝えるのです。受け取って伝えたのですから、そのみ言は自分のものにならないのです。自分のものにならないままに人に伝えたのですから、自分には何もなくなるのです。

 自分のものにできずに伝えると、最後にはサタンが構えているのです。そして、そのみ言がサタンのところに行ってしまうのです。これを、「神のみ言が地に落ちた」というのです。人間のために与えたみ言が、サタンのために与えた結果になるのです。

 皆さんが先生からみ言を受ける時には、「あっ、すてきだなあ、本当に素晴らしい」とだけ思って受け取るのではなく、一歩進んで、「どうしてこのようなことができたのだろう、私もその道を行かなければならない」と、こう考えなければいけないのです。そうすれば、み言は自分のものになるのです。どんどんと、そのみ言は増えていきます。

 ですから、そうでない場合は、いつも目上の人に聞かなければなりません。質問して、また聞かなければいけません。ですから、み言を自分のものにする努力をしてほしいと思います。

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 次回は、「七たびを七十倍するまでに許す」をお届けします。


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