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宣教師ザビエルの夢 1

 アプリで読む光言社書籍シリーズとして「宣教師ザビエルの夢」を毎週月曜日配信(予定)でお届けします。
 1549年8月15日、鹿児島に一人の男が上陸した。家族や故郷を捨て、海を渡った男が、日本で夢見たものは何か。現代日本に対する彼のメッセージを著者が代弁する!(一部、編集部が加筆・修正)

白石喜宣・著

(光言社・刊『宣教師ザビエルの夢-ユダヤ・キリスト教の伝統と日本-』〈1999429日初版発行〉より)

はじめに

 今から7年前(1991)の815日、私は生まれて初めて米国を訪れました。キリスト教に根ざした国の文化、伝統を学んでみたい、また、東洋人として西洋人と正面から向き合い、彼らを理解してみたい、そんな思いを抱いての米国留学でした。

 私が出発することになったこの日は、我が国にとっては終戦記念日ですが、同時にそれは、フランシスコ・ザビエルがキリスト教を携えて日本の鹿児島に到着した日に当たります。またこの日は、彼がパリのモンマルトルで志を同じくする友と集い、人生の新たな決断をした時でもあります。日本を訪れた最初のヨーロッパ人宣教師の旅立ちとわが身の出発とを重ね合わせ、機上から感慨深く下界の風景を見つめていたのを思い出します。

 私にとってこの旅立ちは、彼が日本に対して抱いた夢とは、一体何だったのだろうかと思い巡らす、きっかけになりました。

 米国では、東海岸の歴史的場所を訪ねる機会もあり、そこでいろいろと見聞きすることができました。明治の代表的なキリスト者である、内村鑑三が留学した大学も訪ねてみました。そして、彼が米国を経て、日本で預言者的な活動を展開するなかで、国の使命、すなわち「日本の天職」を論ずるようになったということも、私の心に深く刻まれました。

 その後3年間、米国と日本を行き来しながら、キリスト教の歴史や価値観などを再度学びつつ、米国人の生活に根ざすキリスト教の重みをも体験することができました。そんな中で、日本に戻るたびに感じたのは、「あれ、この国は何かへんだな、妙な具合に変わってきている」というものでした。世間を騒がすニュース、青少年の行動、そんなものが目につきました。そのころから「心の時代」が叫ばれるようになりましたが、それがかえって人々の心の荒廃が進んできたことを示しているように思えました。

 帰国後、それまで学んだことや抱えてきた思いを、少しずつ身近な人々に書き送りました。今回、単行本出版の話を頂いたとき、それらを再度読み直し、いくぶん手を加え、ようやく一冊の書籍として、ここに日の目を見ることになりました。

 日本へ最初にキリスト教をもたらした宣教師ザビエルの思想は、まぎれもなく、ユダヤ・キリスト教の伝統に立つものでした。そのザビエルが携えてきた日本人へのメッセージを理解するためには、まずユダヤ・キリスト教の歴史と伝統的価値観を知らなければなりません。

 そのため本書では、日本のキリスト教史から説き起こし、そのもとになる初代から古代のキリスト教史のエピソードを紹介しながら、今日の日本の社会を見つめるよう努力してみました。ただし、私がここで語る歴史は、きわめて主観的な、私の心象をつづった歴史物語であることを、初めにお断りしておかなければなりません。それに続いてユダヤ・キリスト教の思想の根幹にある「律法」、すなわち、神の教えの中心をひも解いて、現代社会に対するメッセージをたずねてみました。

 振り返ってみれば、我が国の歴史の中にも信仰に殉じたキリスト者の営みがあり、この国に神の愛を伝えんがために命を懸けた、海外からの宣教師たちの人生がありました。そうした先人たちの歩みに目をとめ耳を傾けることは、今日の我が国が世界の中で果たすべき使命を探る手掛かりになるだろうという思いを強く抱いています。

 またそれは、私にとって過去の人々の営為を私の記憶に刻み、現在の世界を覚めて見つめつつ、未来の姿をかいま見ることのできる歴史を後孫の前に描き出そうとする試みともなっています。

1998123
聖フランシスコ・ザビエル司祭の祝日に
著者

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 次回は、「日本とキリスト教との三度の出合い」をお届けします。


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