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信仰の伝統
教会創立以前から文鮮明先生に侍って(113)

 家庭連合の信仰の長兄である金元弼(キム・ウォンピル)先生(1928~2010)の講話をまとめた書籍、「信仰の伝統」を毎週日曜日配信(予定)でお届けします。
 本書を通じて神様の深い愛と文鮮明先生の心情の世界、信仰の在り方を学ぶことができます。

金元弼・著

(光言社・刊『信仰の伝統 教会創立以前から文鮮明先生に侍って』より)

第二部[講話集]生命と愛と理想を懸けて
七、生命と愛と理想を懸けて

▲金元弼先生

神のみを愛するメシヤ

 1960年というのは、6000年を通じて、初めてアダムを迎え、神が一人のアダムを造り、そのアダムによってエバが迎えられた年です。

 メシヤには、神の前に立って、自分というものが全然認められない期間があると話しました。メシヤとして、アダムとして生まれ出るには、自分というものが全然許されません。2000年前のメシヤにとっても同じことです。

 イエス様はメシヤに従う弟子の前で、人々に誰よりも私を愛しなさいとおっしゃいました。私よりも誰を愛しても、慕ってもいけない、誰よりも私を愛しなさいと言われました。神の前に立つメシヤにおいては、誰よりも神を愛さなければならないのです。これはメシヤの前での弟子の話ではなく、神の前に立つイエス様、一人のアダムのことです。神にとっては、神以外の誰をも拝んでも、愛してもいけないということなのです。

 メシヤは、誰よりも神をひたすらに愛するのです。ですから、メシヤはその当時の弟子たちに、「わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」(マタイ1040)と言われています。そのようにメシヤにとっては、神以外の誰をも愛することも、慕うこともできませんでした。ただ神を愛し、神を慕わなければいけないイエス様の道でした。

 そのようにして、初めて神がメシヤの中に共にあったからこそ、メシヤは実体の神として立つことができるのです。ところが、人はそれを信じられずして、再臨の時を待つようになったのです。

 文(ムン)先生の生涯は、先生の生命がすべて神であり、先生の愛のすべてが神であり、そして先生の理想のすべてが神なのです。このようにして、完全なるアダムとして立たられたならば、今度はエバを迎えなければなりません。エバを迎えるに当たって、すべてを尽くして神がアダムを造られたように、エバにも尽くさなければ、エバを迎えることはできないのです。

 このようにして迎えて、父母として立ち返る立場に立たれたのです。いくら夫婦であっても、子女を生まない限り、父母とはなり得ません。子女があって、初めて父母になるのです。

 1960年の御聖婚の時には、信仰の子女を立てることによって、父母としての日を宣布したのです。子女のない父母はあり得ないし、子女のない「父母の日」はあり得ません。

 ですから、そういう子女をもつためには、夫婦が心を一つにして、すべてを尽くさなければなりません。神がすべてを尽くして人を造ったように、父母も子女をつくるためには、すべてを投入していかない限り、子女を生むことはできません。その子女に一人の主体、片親の生命、愛、理想を懸けただけでは駄目なのです。両親の理想と愛と生命を懸けてつくるのです。そこから生まれる子女は、両親の生命と愛と理想が一体となって生まれてくるのです。

 完全な神の願う子女になってこそ、初めて神の立場もあるし、また「神の日」もあるのです。

 夫婦だけでは父母にはなれません。子女があって、父母になれるのです。神も初めのうちは、子女を造られたので、父母としての神であったのですが、その子女が堕落して以来、神であっても、栄光の神になれなかったのです。

 そのことを考えるときに、夫婦が子女を生んで、それによって夫婦が父母になったけれども、永遠なる父母になれるか、なれないかということは、まだ早いというのです。なぜならば、子女ができても、成長期間を通じて完成した大人として立ち返らない限りは、完全な父母にはなり得ないからです。

 父母になるにも、父母になる成長期間があるのです。子女になるにも、子女としての期間があるのです。その子女が完全にその成長期間を通過した時に、初めて完全な子女として立てられ、子女が完成したならば、その時に初めて完成した父母として立つということを考えなくてはいけないのです。

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 次回は、「神の栄光はメシヤ」をお届けします。


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