シリーズ・「宗教」を読み解く 274
キリスト教と日本(53)
スラム街の伝道師

ナビゲーター:石丸 志信

 明治期も終わりに近づいた1909年、神戸の葺合新川(ふきあいしんかわ)で路傍伝道を始めた一人の病弱な青年がいた。
 結核を患い、自らの存在意義を問い詰め、絶望と死の境地にまで至りながら、苦しむ神様の姿に直面した青年、賀川豊彦は、イエス・キリストのごとく十字架を担い、死の峠を越えて人類救済に自らの存在を懸けようと決心した。


▲若き日の賀川豊彦(ウィキペディアより)

 葺合新川は、維新後、急速な重工業化で発展する神戸の街の一画にできたスラム街。貧しき者たちがひしめき合って生きていた。
 この年のクリスマス前夜、21歳の賀川は葺合新川の長屋に居を構え、救貧運動に専念するようになる。

 文字どおり、飢えた者に食べさせ、渇いた者に飲ませ、裸の者に服を着せる生活。貧しき者の友となる福音の実践を開始した。
 大正・昭和にかけて、ガンジー、シュバイツアーと並ぶ現代の「三大聖人」とまでいわれるようになるドクター・カガワの原点がここにある。

 賀川豊彦は、四国・徳島における自由民権運動創始者の一人、賀川純一の次男として生まれた。
 純一は、しばらく政治の世界に身を置いていたが、後に神戸で起業し、海運業で成功を見た。

 彼は子供のできない妻を徳島に残し、芸妓(げいぎ、げいこ)の菅生かめと暮らすようになり、5人の子供をもうけた。
 豊彦は次男として生まれた。経済的に恵まれた家庭だったが「妾(めかけ)の子」であったことが彼の心に大きな影を落とすことになる。

 さらに、4歳の時に両親が相次いで亡くなり、姉と共に本家に入り、本妻の下で育てられることになる。
 幼少期、彼は義母から疎まれ十分な親の愛情を受けることができなかった。

 「私は早くから、悲しみの子であった」(賀川豊彦・著『復刻版 イエスの宗教とその真理』〈ミルトス 2011年〉の序、3ページ)
 賀川は、自らをそう呼んでいる。吉野川流域の自然豊かな環境にいても、その地域にまん延する遊蕩(ゆうとう)の雰囲気は耐え難かった。妾の子として生まれた自らを穢(けが)れた存在として感じていた。

 聖なる者となる望みを抱きながらも、そうなり得ないもどかしさを常に感じながら葛藤の日々を送る少年期。
 賀川は中学生になり、米国人宣教師夫妻との出会いを通して、創造主なる神を知り、イエス・キリストの愛を知るようになる。



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